2006-06-01から1ヶ月間の記事一覧

本郷和人氏著『人物を読む日本中世史』を推薦する

ここしばらく本郷和人氏著『人物を読む日本中世史』(講談社,2006年)を読み続けています。著者から直接いただいたからという理由からではなく,その筆力と目の付けどころの確かさから妙に手放すことができなくなり,何度も気に入った箇所を読み返しています。…

『新古今和歌集』を発刊しているすべての出版社様への手紙

某々出版社 編集担当者 御中 拝啓 突然,お手紙を差し上げる失礼をお許し下さい。 私は昨年の1月に拙稿「新宮出身の歌人行遍について」を貴社編集部宛に送付させていただいた者です。 この論文は,『新古今和歌集』の歌人・行遍が社僧として熊野速玉大社で…

熊野古道への誘惑

熊野古道に癒しの効果があることがあらためて確かめられました。 私は熊野古道のみならず熊野の山々をかなり踏破してきましたが,その魅力が消えることはありません。一時期,心臓病で山へ登れず里歩きで我慢していた時期がありましたが,最近は好調です。 …

平安時代の和歌山県「旧南部町」歴史雑感 №Ⅲ

③,「美奈倍」の道祖神 一一世紀中頃の南部のことが説話という形で出てくるのが,『大日本法華経験記』所収の「紀伊国美奈倍道祖神」の説話である。『大日本法華経験記』が成立した時期は,長久四年(一〇四三)または五年(一〇四四)とされているので,ここに…

「熊野の御師」研究其5

応永一五年(一四〇八)卯月七日付けの「丹波国氷上郡栗作郷久下久元願文」(『熊野本宮大社文書』57号〈『和歌山県史 中世史料二』所収〉)に,御師として「しきやのきしとの」(「敷屋の岸殿」)が登場している。 丹波国氷上郡栗作郷内王巻村久下新左衛門久元(花…

「熊野の御師」研究其4

康応二年(一三九0)二月二二日付けの「丹波国春日井庄玉泉坊引檀那願文」(『熊野本宮大社文書』42号〈『和歌山県史 中世史料二』所収〉)に,本宮御師として「しきやのきしとの」(「敷屋の岸殿」)が登場している。 たんはのくにひかミのかうりかすかいしやう…

平安時代の和歌山県「旧南部町」歴史雑感 №Ⅴ

⑤,『中右記』記載の「南部庄」と「亥の野」 『大御記』や憲淳僧正の日記に続いて,一二世紀初期の南部のことを記した史料に,権中納言藤原宗忠が二人の息子を伴って念願の熊野三山(本宮,新宮,那智)へ初参詣した時のことを記した『中右記』天仁二年(一一〇…

平安時代の和歌山県「旧南部町」歴史雑感 №Ⅵ

⑥,『長秋記』と『吉記』記載の南部 『いほぬし』・『大御記』・『中右記』などに続いて,一二世紀の南部のことを書いた史料として,源師時の『長秋記』と吉田経房の『吉記』をあげることができる。 『長秋記』の長承三年(一一三四)正月一三日~二月一四日条…

熊野別当湛増についての誤説,もういい加減にしてほしいなあ

あるHP(ブログかな)に次のような文章がありました。書いたご本人の責任ではないと思うが,熊野別当を研究している者の立場から言うとこのようなとんでもない誤解はもういい加減にしてほしいと思う。 <「平家の重恩の身」と書かれている湛増は、十八代熊野…

飛鳥・奈良時代の和歌山県「旧南部町」歴史雑感 №Ⅲ

③,南部郷の条里制と景観 条里制とは、古代の律令制府の指令によって碁盤目状に区画された画一的な土地地割のことである。当時の政府は、土地制度である班田収受制度にもとづき農民への土地分与ならびに収公、さらに課税などを円滑におこなうため、その耕地…

平安時代の和歌山県「旧南部町」歴史雑感 №Ⅶ

⑦,五辻斎院領の「相楽庄」と「南部庄」 安元年間(一一七五~一一七七),長日不断の談義所及び鳥羽法皇らの菩提を弔う所として,西行法師の奉行により高野山に蓮華乗院が創建された。蓮華乗院を創建したのは鳥羽法皇と閑院家出身の春日局との間に生まれた五…

平安時代の和歌山県「旧南部町」歴史雑感 №Ⅳ

④,『大御記』と「熊野本宮古記」記載の南部 一一世紀末期の旧南部町のことを書いた文献に,藤原為房の日記『大御記』(「為房卿記」ともいう)と「熊野本宮古記」(「憲淳僧正熊野入堂記」「熊野山入堂」ともいう)がある。京都大学文学部国史研究室所蔵の為房…

平安時代の和歌山県「旧南部町」歴史雑感 №Ⅱ

②,花山法皇と千里ノ浜 一〇世紀末期の南部のことを記載した文献として『栄花物語』『大鏡』『宝物集』『後拾遺和歌集』などがある。これらはいずれも,藤原兼家らの計略によって若くして出家させられた花山法皇が熊野参詣からの帰途,南部町内の「千里ノ浜…

平安時代の和歌山県「旧南部町」歴史雑感 №Ⅰ

①,『いほぬし』に記載された南部 平安時代も一〇世紀に入り熊野参詣が始まると、熊野への旅の途中で南部に立ち寄った人々の南部に関する記録が散見されるようになる。 一〇世紀中頃の南部のことを書いた文献の一つに、比叡山僧で中古三六歌仙の一人とよばれ…

「熊野の御師」研究其10

次に,敷屋氏の続編(其4~8)を飛ばして,御師・見座氏について。 見座氏の本拠地は西敷屋にあったようで,熊野川左岸に子孫が住む立派な石垣のある屋敷が残されている。 嘉慶二年(一三八八)三月二八日付けの「ミさの三郎右衛門入道山譲状」に,譲渡者とし…

「熊野の御師」研究其3

正平八年(一三五三)六月一七日付けの「かねゆき用途請取状」(「新出熊野本宮大社文書」13号〈『山岳修験』九号所収〉)に,「かねゆき」(兼行)が,熊野本宮の用途に使われた一〇貫文(現在の金額に置き換えると約一〇〇万円に相当)のうち九貫文を受け取ったと…

「熊野の御師」研究其2

まずは,敷屋庄の御師・敷屋氏について。 弘安元年(一二七八)一〇月付けの「敷屋庄司兼能・御本預光俊寄進状」(『西福寺文書』1号〈『和歌山県史 中世史料二』所収〉)に,寄進者として「敷屋庄司兼能・御本預光俊」のことが出てくる。西福寺は,仁和寺宝蓮…

「熊野の御師」研究其1

最近,「熊野の御師」に興味をもち,取り敢えず熊野本宮領であった紀伊国敷屋庄内在住の御師について古文書やかつての居住地などについて調査・研究しています。 現在わかっている限りでは,かつての敷屋庄の所在地は,旧熊野川町,現在の新宮市東敷屋・西敷…

熊野出身の『新古今和歌集』の歌人・「法橋行遍」略伝

[行遍](ぎょうへん) 『新古今和歌集』の歌人として名が知られるが,本業は熊野新宮の社僧・御師である。19代熊野別当行範の6男。母親は源為義女(「たつたはらの女房」,「鳥居禅尼」,「熊野禅尼」ともいう)で,その4男に当たる。源頼朝は行遍の母方の従兄…

少林寺所蔵の地蔵菩薩像の紹介

熊野地方の代表的な仏像で,新宮市(旧熊野川町)日足の少林寺所蔵の地蔵菩薩像(平安時代末期)を紹介します。 この地蔵菩薩像は,すでに,かなり丁寧に修復されているので,わかりにくいところもあるかと思いますが,保護のため熊野古道沿いの廃寺(志古奥の万…

阪本敏行『熊野三山と熊野別当』の紹介

阪本敏行『熊野三山と熊野別当』の概要を紹介します。 紀伊半島の一角に鎮座する熊野三山は,熊野本宮大社・熊野新宮大社・熊野那智大社の熊野三社を中心にして,それらを取り巻く大小無数の神社や寺院とから構成された,神と仏と人間が同居する巨大な聖地で…