阪本敏行『熊野三山と熊野別当』の紹介

 阪本敏行『熊野三山熊野別当』の概要を紹介します。

 紀伊半島の一角に鎮座する熊野三山は,熊野本宮大社・熊野新宮大社・熊野那智大社の熊野三社を中心にして,それらを取り巻く大小無数の神社や寺院とから構成された,神と仏と人間が同居する巨大な聖地です。古来,熊野三山は,男女・貴賎・貧富を問わずたくさんの人々の信仰を集めてきましたが,その熊野三山において,特に古代の終わり頃から中世前期にかけて在地における最高管掌者として権力を振るってきた人物が熊野別当であり,その一族である熊野別当家の人々でした。

 本論文集は,主に熊野三山熊野別当家の政治史研究に主眼を置き,従来見過ごされがちであった熊野別当とその一族,さらには彼等を取り巻く様々な家系の人々の姿を通じ,これまであまり取り上げられることのなかった視角から,新たな熊野三山の歴史を描こうとしたものです。全体の構成は,序論と二部構成の本論,そして終論からできています。

 序論は,本論文集を,これまでの熊野三山熊野別当家の研究史の上に位置づけるため新たに書き起こしたものです。

 「熊野三山の統括組織」というタイトルをつけた本論第一部へは,このテーマに関係した四つの論文と一つの特論を収録しました。中世の熊野三山を統括・支配していた職制や組織を明らかにするという試みは,熊野三山研究の最重要テーマでありながら宮地直一氏以後,なぜかこれまであまり取り上げられてきませんでした。しかし,今回,これに関連して書いた論考を一つに集めることによって,大まかな輪郭が見えてきたように思えます。

 一章では,これまでの先駆者の多くが研究する際にこだわってきた伝説や系図にあまりとらわれることなく,中世前期の熊野三山を統括・支配していた上下様々な職制や組織の実態と各々の役割,そしてそれらの職制や組織の歴史的変遷について,熊野三山に利害を有する熊野別当家を始めとする様々な家系の人々を登場させつつ,できるだけ多くの,しかもできるだけ信憑性に富んだ史料を選んで考察しました。

 二章では,中世後期の那智一山を現実に統括・支配していた「常住」とよばれる社僧や衆徒勢力の組織の実態と各々の役割,そしてそれらの組織の歴史的変遷を解明するため,まずその焦点を熊野那智の最上層部に位置する「両執行職」に当て,できるだけたくさんの,しかもできるだけ信憑性の高い史料を使って考察しました。しかも,その際心がけたことは,単なる孤立した個人を取り上げるのではなく,その個人が所属する一家・一族とどのような繋がりを持っていたかを重視し,複雑に絡む縁戚関係を父系・母系に跨って読み解きつつ,考察を進めました。

 三章では,考古学と文献史学の成果を地域史研究の中で総合化しつつ,それまであまり知られていなかった熊野那智の生の歴史的事実に迫ろうと試みました。川関遺跡や藤倉城跡の三次元的復元がさらに進めば,文献史学とのさらなる接点が明らかにされるでしょう。

 四章では,熊野那智の各家が所蔵してきた『熊野那智大社文書』の詳細な分析を通じ,那智の社僧として有名な潮崎尊勝院家,米良実報院家,潮崎龍寿院家などの家系に関して,それまで長く伝えられてきた各家の系図によって書かれた歴史とは異なる,新たに解明された事実にもとづく各々の家系の歴史を明らかにしました。

 なお,「熊野三山大仏師良円と西大寺教団の動向」と題して最後に収めた特論は,第一部のテーマからやや外れると思われますが,新発見の遍照寺弘法大師像の胎内銘をもとに,熊野三山大仏師良円と熊野地方との関係,弘法大師像を製作させた叡尊を中心とした西大寺教団と紀伊および熊野地方との関係につい
て宗教的・政治的立場から考察し,熊野地方において西大寺教団が果たした役割を歴史的に考察しようと試みたものです。

 「熊野別当家の政治的役割とその展開」というタイトルをつけた本論第二部へは,このテーマに関係した一三の論文を収録し,熊野三山の社僧であり,地域のリーダーでもあった「熊野別当とその一家・一族」の歴史と,彼等が紀伊半島の地域史や日本史の上で果たしたその政治的・経済的役割を明らかにしつつ,地域史研究と日本史研究の接点をより明確にしようと試みました。このテーマもまた,重要なテーマとされながら,これまで熊野水軍などとの関係から部分的に取り上げた研究者はいるものの,熊野三山の妻帯社僧の一員であった「熊野別当とその一家・一族」の歴史について本格的に取り組んだ研究者はおらず,案外見過ごされてきたテーマであったといえます。

 一章では,『僧綱補任』(興福寺本,彰考館本)に熊野関係者として登場する長快以下六人の人物を取り上げ,『僧綱補任』によりつつ,十二世紀前半の熊野別当家をめぐる政治的諸情勢について論述しました。その結果,これまであまり注目されていなかったいくつかの新しい事実を明らかにすることができました。

 二章では,一七代目別当長兼とその子孫(三男流の長兼家の人々)による富田川中流域支配の実態に焦点を当てつつ,熊野別当嫡流および庶流分立による在地支配の確立の問題について考察を試みました。この結果,新宮別当家と田辺別当家では十二世紀後期までに在地支配の体制がほぼ確立し在地領主としての面的支配がおこなわれるようになっていましたが,長兼家では色々な理由からそれが点的もしくは線的支配に止まり,在地領主として十分に発展できなかったことを明らかにすることができました。

 三章では,熊野別当家から田辺家を独立させ,熊野別当として熊野三山と中央政権(院政平氏政権)との繋がりをより緊密にさせると共に,熊野三山領を全国的に展開させることによって,熊野別当家を湯浅党と並ぶ紀伊を代表する武装勢力,さらには地方の権門の一つへと発展させるきっかけをつくった熊野別当湛快の生涯について,湛快が生きた時代に触れつつ詳しく論じました。

 四章では,「僧綱補任残欠」寿永三年の条文に記載された熊野の人々について検討し,行命・湛増らを中心に源平争乱期における新宮・田辺両別当家や長兼家の人々の動向について論述しました。

 五章では,情報量が豊かで,かつ信憑性が高い『僧綱補任』宮内庁書陵部蔵本寿永二年・三年の熊野関
係記事を紹介しつつ,その記事に逐一検討を加えることによって,熊野別当家関係者およびその周辺の人々の相互の繋がりと各々の経歴を明示し,四章で論じ残したこと,さらには論じ足りなかったことなどに関して改めて論究しました。

 六章では,中世前期の紀伊を代表する人物の一人で,地方権門・在地領主としての熊野別当家と,武装集団としての熊野水軍の名前を全国的に知らしめ,庄園領主(領家)としての熊野三山の政治的・経済的基盤を拡大させた傑物でありながら,世人の誤解を受けることの多かった熊野別当湛増の生涯について,湛増が生きた激動の時代と関連させながら詳細に論述しました。

 七章では,十二世紀末期から十三世紀初期にかけての熊野三山の政治的状況に関する宮地氏の見解のうち,『熊野山別当次第記』の別当範命関係の条項の解釈に関していくつかの疑問点をあげ,ここに記述された出来事(すでに権別当が一人いるのに,その上に二人目の権別当湛顕が任命され権別当二人制がしかれたという出来事)が別当範命の時代に起こった出来事だったのではなく,その前代の別当行快の時代に起こった出来事であったということを明らかにしました。

 八章では,『新古今和歌集』に和歌四首を採用された歌人の法橋行遍は,熊野別当嫡流新宮別当家出身で,後に法眼になった後,間もなく死去した熊野行遍以外にはありえないこと,さらに行遍は若い頃に,熊野速玉大社において社僧として勤務するかたわら,近隣の野山で仏道修行に励んでいた西行法師につき従いつつ和歌の作り方を習ったこと,そして元久元年六月中旬に行遍が藤原定家の宿所を訪問しその経歴と和歌の数々を披瀝したことをきっかけにして,行遍の歌が定家によって『新古今和歌集』に採用されたことなどを明らかにしました。

 九章では,藤原頼資の熊野詣記や熊野参詣随従日記などに記載された多くの人々の中から特に熊野別当家の人々を抽出し,その日記からうかがえる彼等の様々な行動を追跡しつつ,上皇女院,貴族(公家),さらには彼等を取り巻く人々との関係を探り,十三世紀前期の社会情勢の移り変わりの中で熊野別当家の人々が果たした役割について論じました。そして,熊野別当家はその主流派が承久の乱の際に後鳥羽上皇方に加わったことにより,非常に大きな痛手を被ったことを明らかにしました。

 十章では,『吉黄記』正嘉元年閏三月二七日条の記事の分析と考察を通じ,十三世紀中期の田辺地方における在地勢力の動向について論じました。そして同時に,承久の乱後,幕府・新補地頭勢力が紀南地方に進出することにより,田辺周辺の地域(南部・芳養・富田川中流域など)において田辺別当家の勢力が弱体化し,さらに上皇や公家らによる熊野参詣が衰退したことにより,在地勢力そのものがその経済的基盤を失いつつあったことについても新知見を加えました。

 十一章では,田辺別当嫡流でしかも熊野三山の権別当であつた湛順の熊野山領庄園をめぐる動きと,湛順らの後を受け熊野を遠く離れた九州の高知尾庄で所領経営につとめその勢力を根づかせていった田辺別当家庶流浦上氏の,鎌倉時代中期から南北朝動乱期にかけての動向に関して論じました。

 十二章では,十三世紀後半から十四世紀前半にかけて出てくる社僧身分に所属する御師田部総領湛尊法
印や田辺惣領法印の事例と,田辺別当家の嫡流であることを示唆する,書状への扇面松印の使用(田辺蓬莱家出身で湛尊の子湛意が使用)などの事例を提示し,所領・財産の相続が分割相続制から一子単独相続制へと移行する中で惣領制が強化・再編成されつつあったことを論述しました。そしてそれと共に,田辺蓬莱家(湛順家)の人々が惣領制の強化・再編成の動きの中で,田辺惣領の既得権としての本宮御師職を堅持しつつ,田辺地方でのさらなる勢力の拡大をはかろうとしていたことを指摘しました。

 十三章では,専門誌に投稿してきた論文以外にこれまで執筆してきた『南部町史』『田辺市史』『本宮町史』の成果にもとづき,熊野別当僧綱家の創始者である一五代目別当長快以後の歴代別当および熊野別当家の歴史について大まかにまとめました。特に,鎌倉時代末期の鎌倉幕府を震撼とさせた熊野水軍の一斉蜂起事件について,少ない史料の中から思いがけず新知見を示しえたことは大収穫でした。

 終論では,「中世後期の熊野三山統括組織の実態とその変遷」についての解明,「熊野三山領庄園の総合的研究」,「熊野水軍の形成と発展」についての研究,「顕密体制論と修験道」についての研究など,地域史・日本史の課題として未だ残された問題が数多く存在すること,そしてその解明が是非とも必要なことなどを示唆し,論を終えました。