「熊野の御師」研究其5

応永一五年(一四〇八)卯月七日付けの「丹波国氷上郡栗作郷久下久元願文」(『熊野本宮大社文書』57号〈『和歌山県史 中世史料二』所収〉)に,御師として「しきやのきしとの」(「敷屋の岸殿」)が登場している。

丹波国氷上郡栗作郷内王巻村久下新左衛門久元(花押)
御先達宝生坊(花押)
  応永一五年卯月七日
    御師しきやのきしとの

応永二四年(一四一七)三月二五日付けの「本宮衆議下知状」(「玉置主計文書」〈『牟婁郡古文書』〉)に,熊野本宮御師として「敷屋源六」,「宇井又次郎」,「故敷屋兼弼」などが登場している。「故敷屋兼弼」とは,九年前に登場した「しきやのきしとの」をさしているのだろうか。「敷屋兼弼」という本名が出てきたのは,約一三九年前の「敷屋兼能」以来のことなので,その繋がりが注目される。

 播州赤穂郡之内坂越庄檀那,敷屋源六方与宇井又次郎方相論
右,彼旦那先達職者,備州三石之内太平寺於引導者,任故敷屋兼弼掟,一人不漏源六方,可有末代知行,於片嶋先達引者,同任故兼弼支証,又次郎方向後可有知行之由,依衆儀下知之状如件,
  応永廿二二年丁酉三月廿五日
               公文所良泰(花押)
               権在庁所(花押)
               在庁所光実(花押)
               権政所直信(花押)
               権政所具賢(花押)
               正政所高良(花押)
               検校代清賢(花押)
               〔       〕
               〔       〕

結果は,本宮衆徒の衆議において,播州赤穂郡之内坂越庄旦那先達職のうち,備州三石之内太平寺が引導してくる者に関しては,一人漏さず源六方に末代知行させ,片嶋先達が引いてくる者については,又次郎方が向後知行すべきことを衆儀下知したようである。詳細は不明ながら,先代の敷屋兼弼の譲りに絡む何らかの事情がこういう形で反映されたようである。