平安時代の和歌山県「旧南部町」歴史雑感 №Ⅰ

①,『いほぬし』に記載された南部

平安時代も一〇世紀に入り熊野参詣が始まると、熊野への旅の途中で南部に立ち寄った人々の南部に関する記録が散見されるようになる。
一〇世紀中頃の南部のことを書いた文献の一つに、比叡山僧で中古三六歌仙の一人とよばれた増基法師の『いほぬし』(庵主)がある。『いほぬし』が成立した時期は、「正暦末年(九九三~九九四)ないしは長徳初年(九九五~九九六)以降」とされている。そして,前半の「熊野紀行」は後半の「遠江紀行」に比べてかなり若い頃のものと考えられるところから,主に文中の干支を根拠に、これまでこの「熊野紀行」の成立時期を天暦一〇年(九五六)頃と見なす説が国文学者などの支持を集めてきた。しかし、近年,増淵勝一氏のように、この「熊野紀行」末尾に見える「京極の院」の荒廃を、正暦四年(九九三)七月に亡くなった左大臣源雅信の堤第京極院をさすと見なせるならば、熊野参詣に出立した年不詳の「神無月の十日ばかり」を、雅信の忌明け後の正暦五年(九九四)一〇月一〇日と見て、一〇世紀末期説を唱える人も現れ(増淵勝一『いほぬし精講』<国研出版、二〇〇二>)、さらにまた、この「熊野紀行」の中の,花の窟を描いた場面に経塚らしいものの存在が見うけられるところからその成立時期を一一世紀初期まで下げる見解が出され,後者は多くの歴史学者の支持を集めるようになってきている。しかも,この見解以外に,永井義憲氏・五来重氏のように一〇月一日庚申の年を一〇五〇年とする説を根拠に一一世紀中期説を主唱する学者もいる。
しかし私は,本宮などをめぐる文章全体の内容や『諸山縁起』所収「第六項・熊野山本宮別当次第」の記述内容から考えて,その成立時期を,多くの国文学者たちが支持してきたように、天暦一〇年(九五六)頃と見て、一〇世紀中期説を支持したいと思う。
『いほぬし』の「熊野紀行」によると、ある年の冬、増基法師は歌枕を訪ねつつ熊野本宮へ参詣する目的で熊野への旅に出た。途中立ち寄った南部町の海岸部で、三首の情景歌を残している。
物見遊山的性格を持つ増基法師の旅の目的から考えて、「いはしろ」(岩代)といえば「松」と有間皇子というのが和歌を作る際の当然の連想であったようで、その夜泊まった「いはしろの野」でそれにちなむ,「石代のもり尋てといはせばやいくよか松はむすびはじめし」という和歌一首を作っている。そしてさらに、「ちかの浜」へ行き、そこで小石を拾いつつ,「うつ浪にまかせてをみん我拾ふはままの数に人もまさらじ」という和歌一首を作っている。「ちかの浜」について、多くの人々はこの「ちかの浜」を現在の「千里ノ浜」と考えているようであるが、言葉どおり受け取れば南部川河口にある千鹿浦(ちかのうら)の浜辺をさしているとも推測される。さて,どうであろうか。
その後、増基法師は、現在の南部の浜辺にあたる「みなべの浜」で、熊野山から帰ってきたばかりの知人に出会い、浜辺の情景を見つつしばらくの間言葉や和歌のやりとり(「みくまのの浦にきよする濡衣なき名をすすぐ程と知なむ」)をした後で、「また再び京都で会いましょう」と言って別れ、「むろのみなと」(現在の田辺市湊)に向かっている。

以上、『南部町史 第二巻・通史編』(南部町、1993年)より。引用掲載感謝します。