平安時代の和歌山県「旧南部町」歴史雑感 №Ⅳ

④,『大御記』と「熊野本宮古記」記載の南部

一一世紀末期の旧南部町のことを書いた文献に,藤原為房の日記『大御記』(「為房卿記」ともいう)と「熊野本宮古記」(「憲淳僧正熊野入堂記」「熊野山入堂」ともいう)がある。京都大学文学部国史研究室所蔵の為房自筆の『大御記』永保元年(一〇八一)本から関連部分を抜き出すと,

(永保元年九月)
「卅日癸丑・・・・」
戌刻,着石代住人宅,凡徐歩之間,多入更漏,
「十月一日甲寅・・・・」
辰剋,乗海人舟,未刻,着大方浦,同時越三栖庄家,散位正資・秋津庄・那賀庄贈覉旅之資,
   〈中略〉
「九日壬戌・・・・」
酉剋,着日高郡司友高宅事儲豊贍也,此日於切戸山取奈木葉挿笠,

為房は,熊野本宮へ参詣するという目的で,永保元年九月一七日から精進を始め,二一日に京都を出発し,二九日に「塩屋上御牧預宅」へ泊まった後,翌三〇日に雨の中を予定よりかなり遅れて夜の八時に「石代住人宅」に着いている。そして,翌日,午前八時に海人の舟に乗り,約六時間かかって午前二時に「大方浦」(現在の田辺市新庄町大潟付近か)に着き,山を越して三栖庄家(現在の田辺市下三栖に所在か)に宿泊している。
では,為房ら一行はなぜ陸路を取らず海路を取ったのか。
このままの旅程で行くと,泊まりは田辺になったはずである。たぶん当日の宿泊予定がゆかりのある三栖になっていたため,旅程の遅れを取り戻す目的で岩代浜(岩代川河口付近)から船に乗り「大方浦」に向かったのであろう。その後,彼は中辺路をへて,無事に熊野本宮に到着し,帰り道の二月九日に馬で南部を通ったはずであるが,これについての記載はなく,わずかに「切戸山」(旧南部町と印南町との境目付近にある現在の狼煙山か,あるいは印南町嶋田中山王子付近をさしているのであろう)で熊野の神木である奈木の葉を取り,それを菅笠に挿して旅を続けたと記載されている。
なお,二年後の永保三年(一〇八三)に熊野参詣した憲淳僧正の日記(「熊野本宮古記」所収)に,九月一四日に岩代王子社に詣で,そこで漢詩を詠んだことが記されている。
  
十四日。天晴。次中山王子。有祓。次経浦路。参岩代王子。面々註一首。愚作云。
眼疲蒼海千里望。響潔緑松数曲調。  

なお,岩代王子社の名前が出てくるのはこれが初めてで,すでに見晴らしのよい場所として旅人の注目を集めていたことがわかる。

以上、『南部町史 第二巻・通史編』(南部町、1993年)より。引用掲載感謝します。