平安時代の和歌山県「旧南部町」歴史雑感 №Ⅶ

⑦,五辻斎院領の「相楽庄」と「南部庄」
 
安元年間(一一七五~一一七七),長日不断の談義所及び鳥羽法皇らの菩提を弔う所として,西行法師の奉行により高野山に蓮華乗院が創建された。蓮華乗院を創建したのは鳥羽法皇と閑院家出身の春日局との間に生まれた五辻前斎院頌子内親王(一一四五~一二〇八)であった。その五辻斎院庁から南部庄の政所にあてられた承安五年(一一七五)六月二四日付けの「前斎院庁下文」によると,南部庄山内村の田一〇町が,諸仏への供物や点燈用油などを購入する目的で蓮華乗院に寄進された。

   前斎院庁下 南部御庄政所
    可早寄進於高野山蓮華乗院当御庄山内村田拾町事
   右,件御堂,為 故鳥羽院御菩提,所令建立御也,仍以件村所当地利,為被宛彼仏
   性燈油人供等,令寄進者也,〈中略〉永可為彼御堂御領之状,所仰如件,敢不可違失,
   故下,
     承安五年六月廿四日 宮内録中原(花押)
   別当少納言兼侍従藤原朝臣(花押) 河内権守紀朝臣(花押)

この山内村とは,旧南部町山内にあった集落のことで,熊野古道からやや外れた所に位置しているが,たぶん丘陵に沿ってその麓に集落を展開させていたのであろう。なお,長寛二年(一一六四)に紀伊国一宮の日前国懸宮が焼亡しその造営役が紀伊国のすべての公領・庄園に課せられたが,治承二年(一一七八)六月二一日付けで南部庄と相楽庄がその課役の一部を請け負ったことが知られている(「日前宮造営役請文」)。
ところで,南部庄は,いわゆる請所庄園の代表的な庄園で,庄域二〇〇町をほこる大規模な領域型の庄園である。この請所庄園というのは,所当・公事の未進の頻発に伴って起こる紛争を解決する手段として,庄園領主が下司などの在地領主に所当・公事を請け負わせるかわりに,庄園のすべてを彼等に委ねるという形態を取る庄園である。
しかし,承安五年の下文により,いったんこの時点でその一部である南部庄山内村の田一〇町の領家職が高野山の蓮華乗院に移行したことがわかる。
なお,南部庄は,もともと後三条天皇(一〇三四~一〇七四)の三宮であった輔仁親王(一〇七三~一一一九)系統に伝領された庄園であったようで,最近の研究によると,その後,娘の守子内親王(伏見斎院)から妹の仁子女王(「比丘尼妙恵」)をへてその娘の春日局に伝領され,さらにその娘の頌子内親王に伝えられたことがわかる。
安元三年(一一七七)六月二二日付けの「春日殿御文」によると,南部庄は当時,「本さう」(本庄。旧南部川村東本庄・西本庄を中心とした南部川中流域)と「新さう」(新庄〈旧南部町気佐藤・東吉田周辺の南部川下流域〉。鎌倉時代には,「新庄村」・「吉田村」などに分離か)にわかれていたようである。本庄と新庄の境界線がどこにあったかよくわからないが,旧南部川村の谷口と筋の境にある「榜示」・「草縄」などの小字名や,東本庄と谷口との境にある「庄境」という小字名などがかつての境界線を表わしているのかもしれない。なお,ついでにいうと,南部庄の東西の境界点を示すと考えられる地名として,旧南部町東岩代に「榜示ケ尾」,さらに旧南部町堺に「才賀法地」という小字の名が残されていることにも注目したい。
なお,源平争乱後の文治二年(一一八六)九月九日付けの「前斎院下文」によると,南部庄の田一四町所当米が高野山金剛峰寺の御塔用途にあてられている。その宛先は,下司・公文・定使等所であったが,田一四町が南部庄内のどこをさしていたかは不明である。
承元二年(一二〇八)に五辻斎院が亡くなった後,南部庄は建久五年(一一九四)四月日付けの「前斎院庁寄進状」で予告されていたように,隣接していた相楽庄(旧南部川村晩稲字常楽寺を中心とした三〇町程の庄園)とともに,すべて蓮華乗院に寄進されその進止にまかされたようである。請所としては,田辺の新熊野十二所権現神社(現在の闘鶏神社)を拠点としていた,熊野別当家庶流の田辺別当家の人々(湛快→湛増→湛勝→湛政〈湛盛〉→快実)が守子内親王の時代から代々下司としてこの任に当たっていたようである(貞応元年〈一二二二〉七月一〇日付けの「南部庄官年貢米起請文案」)。その請料は,湛快の時代は三〇〇石,湛増以後は五〇〇石(その内訳は,見米三〇〇石,色代二〇〇石)であつた。田辺別当家が田辺から南部へと勢力を拡大し在地領主として庄園内にその勢力を拡大していくに当たり,王子社経営を下に開発あるいは買得,さらには得分などによって所領を集積しつつ,庄園内の有力名主との間に個別的な主従関係を結びその支配を及ぼしていったことが推定できる。