平安時代の和歌山県「旧南部町」歴史雑感 №Ⅵ

⑥,『長秋記』と『吉記』記載の南部

『いほぬし』・『大御記』・『中右記』などに続いて,一二世紀の南部のことを書いた史料として,源師時の『長秋記』と吉田経房の『吉記』をあげることができる。
長秋記』の長承三年(一一三四)正月一三日~二月一四日条には,鳥羽上皇と待賢門院璋子が熊野参詣した時の様子が詳しく記載されているが,現存する日記では熊野本宮からの帰途の様子しかわからず,南部との関係でいうと,二月四日に師時ら一行が「千里」(「千里ノ浜」)において昼食を取ったことだけが記されている。

   四日甲申,寒風尚烈,天明令発給,巳時於千里有昼養事,於内原于時酉,

一方,四〇年後の『吉記』承安四年(一一七四)九月二八日条に,熊野参詣への途中,経房ら一行が南部を通った時,「三鍋海福寺」付近で昼食を取り,その付近で先達の指示により塩垢離を取ったことが記載されている。

   廿八日壬子,晴,於三鍋海福寺,有昼養,浴塩水,申斜着田辺湛増法眼房,

経房ら一行が昼食を取った「三鍋海福寺」とは,一体どこに所在した寺か。
可能性としては,岩代王子社・千里王子社・三鍋王子社・須賀神社(旧南部川村祇園御霊宮)などの神宮寺であった可能性が考えられる。前節で紹介した『中右記』天仁二年一〇月二一日条の千里浜での塩垢離の記事との関連からいうと,千里王子の神宮寺であったと考えられるが,現在,鎌倉時代中期の阿弥陀如来像や観音・勢至菩薩立像を所蔵する安養寺(一〇世紀末期創建との伝承と,かつて平安時代中期の懸仏を所蔵していたとの伝承あり。旧安養寺は現在の芝古墳群・金毘羅天神社付近に所在)との関係からいうと,「三鍋海福寺」がかつて三鍋王子社の神宮寺として旧安養寺跡に所在していた可能性もある。現に,この時点から二七年後に,「次参三鍋王子,自是入昼養所」(藤原定家後鳥羽上皇熊野参詣記』建仁元年〈一二〇一〉一〇月一二日条)というきろくが見受けられることから,後者である可能性が高い。
なお,南部は,当時,五辻斎院領南部庄の下司職で本宮御師でもあった熊野別当湛増(一一三〇~一一九八)の勢力圏(北は印南町切目から東は旧本宮町まで)に含まれていたことから,湛増が「三鍋海福寺」での昼食接待を手配したと考えられる。