「熊野の御師」研究其10

次に,敷屋氏の続編(其4~8)を飛ばして,御師・見座氏について。

見座氏の本拠地は西敷屋にあったようで,熊野川左岸に子孫が住む立派な石垣のある屋敷が残されている。
嘉慶二年(一三八八)三月二八日付けの「ミさの三郎右衛門入道山譲状」に,譲渡者として「ミさの三郎右衛門入道」〈見座の三郎右衛門入道〉,被譲渡者として「ちやくししん左衛門」〈嫡子新左衛門〉が登場する。

一やハたか山の事,東かハをかきり,南ハかゑつつみをかきる,西ハなかミねをさかう,北ハさるはしのはさをさかう,
一なかのの山の事,東もものきのうしろをかきる,しもゑきてハ又太郎三郎ハつくりよりなかののそうへミあつへし,
 西ハやすハらのちやうしやうをさかう,北ハたにのなかをさかう,ここのためにゆづりの状くたんの事しねこのむねをそむかん物ハ,ふけうのことあるへし,このほか北ハ八郎いたし□□□□□□□候らすへし,そのほかあらそいあるへからす,ちやくししん左衛門えせうにゆつルところ実也,
   嘉慶戌辰二年三月廿八日
         ミさの三郎右衛門入道かね□□(花押)
一あら□ちをあつけたるによんて,かちやの二郎をゆつりのしち也,

明徳元年(一三九〇)一二月一三日付けの「ミさのしやうけん屋敷売渡状」(「新出熊野本宮大社文書」32号〈『山岳修験』九号所収〉) に,売渡者として「ミさのしやうけん兼成」〈見座の将監兼成〉が登場する。

(端裏書)
「ミさのしやうけんとのうりけん」
うりわたす 屋敷の事
        東ハ与一か屋敷をかきる
合一所,在所坪口西ハ大道,南ハせうのさゑもん
とののやしき,北ハ孫太夫か屋敷
右の屋敷ハ,あり太夫か重代のやしきを下人たるあひた,ちかいめあるによてとりあけて,代銭十二貫文ニ永代本山の助殿ニうりわたし申候,このうへハさらに他人さまたけあるましく候,もしちかいめも候ハハ,本銭一倍のさたをいたすべく候,尚々いかやうのちかいめ候とも身かさたとしてさはくり申へく候,仍うりけんの状如件,
  明徳元年十二月十三日
         ミさのしやうけん兼成(花押)

見座三郎右衛門入道兼□と見座将監兼成の関係はどうなっているのか。同様に,見座新左衛門と見座将監兼成の関係は・・・・。
応永一三年(一四〇六)正月一一日付けの「ミさのしやうけん城山譲渡状」に,譲渡者として「ミさのしやうけん」〈見座の将監〉と,被譲渡者として「いとこのをいのしんさ衛門太郎」〈従兄弟の甥の新左衛門太郎〉が登場する。この「しろやま」とは背後にある高い山のことであろうか。それにしても,城山を譲渡する中世文書はあまりないのでは?

(端裏書)
「□□のしやうけん入道のゆつり□□」
ゆつりわたす申しろやまの事
右,仲山ハ三さのしやうけん入道から申大とあるニよんて,いとこのをいのしんさ衛門太郎ニ永大ゆつりわたすところ実也,但さかいハ,ミなミハたにをかきる,にしハミ弥をかきる,きたハとののおはかのきハからミ弥のくちゑすくにとをして,但ミさをはいけてのふへし,又この状をそむかんこともにをいてハいらんの申へからす候,よんてこにちのさたのために,状如件  ミさのしやうけん入道(花押)
  応永十三年正月十一日

見座将監と見座新左衛門太郎の関係は,後者が前者の従兄弟の甥であるとのことであるが,これは従兄弟で甥ということをさしているのであろうか。また,見座新左衛門太郎と先に出てきた見座新左衛門とは同一人物であろうか。