「熊野の御師」研究其3
正平八年(一三五三)六月一七日付けの「かねゆき用途請取状」(「新出熊野本宮大社文書」13号〈『山岳修験』九号所収〉)に,「かねゆき」(兼行)が,熊野本宮の用途に使われた一〇貫文(現在の金額に置き換えると約一〇〇万円に相当)のうち九貫文を受け取ったと書かれている。端裏書にある「しきやのまこ四郎との」(敷屋孫四郎殿)は本宮衆徒として何らかの役職についていたか,あるいは御師であったと思われる。
(端裏書)
「しきやのまこ四郎とのへ」
しゆとの御なかよりうけとる十くわんもんのようとうのうち,まつまつ九くわんもんうけとるところしちなり
しやうへいはちねん六月十七日
かねゆき(花押)
貞治五年(一三六六)七月五日付けの「丹波国豊富庄昌然等願文」(『熊野本宮大社文書』21号〈『和歌山県史 中世史料二』所収〉)に,御師として「しきやのしやうしとの」(「敷屋庄司殿」)が登場している。この「しきやのしやうしとの」と一三年前に登場した「しきやのまこ四郎との」との関係は不明だが,両者は同一人物であったかもしれないし,あるいは,「しきやのまこ四郎との」は一三年後に登場する「敷屋之岸波(殿カ)」と同一人物であったとみなすべきかもしれない。
たんはのくにといとミのしやうの昌然(花押)
いせのくにあけきのしやうけいかん(花押)
ありたのしやうのはやつき朋心(花押)
同かくあミ(花押)
しきやのしやうしとのゝをまへ申候,
ちやうち五ねん七月五日
康暦元年(一三七九)四月一八日付けの「丹波国多記郡檀那交名注文」(「新出熊野本宮大社文書 付畠中家文書」2号〈『山岳修験』九号所収〉)に,御師として「敷屋之岸波(殿カ)」が登場している。
丹波国多記郡小多田保
興聖寺住侶禅清阿闍利敷屋之
岸波ニ引付檀那人数次第
専念 庚源法 内□女 妙心
目珍 介 六郎大夫 宮内
記官 四郎 又太郎 彦三郎
又三郎 □四郎 殊三郎
讃岐阿闍利庄心丘(花押) 禅清阿闍利
右,本宮参詣檀那人数次第
如件
康暦元年卯月十八日
先達 禅清阿闍利(花押)
(端裏書)
「しきやのまこ四郎とのへ」
しゆとの御なかよりうけとる十くわんもんのようとうのうち,まつまつ九くわんもんうけとるところしちなり
しやうへいはちねん六月十七日
かねゆき(花押)
貞治五年(一三六六)七月五日付けの「丹波国豊富庄昌然等願文」(『熊野本宮大社文書』21号〈『和歌山県史 中世史料二』所収〉)に,御師として「しきやのしやうしとの」(「敷屋庄司殿」)が登場している。この「しきやのしやうしとの」と一三年前に登場した「しきやのまこ四郎との」との関係は不明だが,両者は同一人物であったかもしれないし,あるいは,「しきやのまこ四郎との」は一三年後に登場する「敷屋之岸波(殿カ)」と同一人物であったとみなすべきかもしれない。
たんはのくにといとミのしやうの昌然(花押)
いせのくにあけきのしやうけいかん(花押)
ありたのしやうのはやつき朋心(花押)
同かくあミ(花押)
しきやのしやうしとのゝをまへ申候,
ちやうち五ねん七月五日
康暦元年(一三七九)四月一八日付けの「丹波国多記郡檀那交名注文」(「新出熊野本宮大社文書 付畠中家文書」2号〈『山岳修験』九号所収〉)に,御師として「敷屋之岸波(殿カ)」が登場している。
丹波国多記郡小多田保
興聖寺住侶禅清阿闍利敷屋之
岸波ニ引付檀那人数次第
専念 庚源法 内□女 妙心
目珍 介 六郎大夫 宮内
記官 四郎 又太郎 彦三郎
又三郎 □四郎 殊三郎
讃岐阿闍利庄心丘(花押) 禅清阿闍利
右,本宮参詣檀那人数次第
如件
康暦元年卯月十八日
先達 禅清阿闍利(花押)