熊野別当湛増についての誤説,もういい加減にしてほしいなあ

あるHP(ブログかな)に次のような文章がありました。書いたご本人の責任ではないと思うが,熊野別当を研究している者の立場から言うとこのようなとんでもない誤解はもういい加減にしてほしいと思う。
<「平家の重恩の身」と書かれている湛増は、十八代熊野別当、湛快の子で、母は源為義の娘の鳥居禅尼で、妹は平忠度の妻である>
<『平家後抄』(角田文衛著)によると、熊野別当家には内紛があり、湛増の父の十八代熊野別当、湛快の死後、母の鳥居禅尼は新宮の行範と再婚して行快(二十二代別当)等を産み、行範は十九代別当となったが、本宮の湛増は自分を捨てた母親に反感を持っていたらしく、行範と行快が源氏寄りなのに対し、積極的に平家に接近して、その恩恵を受けていたという>
まず,結論から言うと,湛増の母親は源為義の娘ではなく,湛増源為義の娘すなわち鳥居禅尼の娘の婿に当たっている(『延慶本平家物語』十一・源氏ニ勢付事)。義理で言うと親子であるが,あくまでも血のつながりのない義理の親子である。したがって,湛増鳥居禅尼に対して「愛憎からくる反感」など持ちようがないのである。さらに,もっともおかしいのは,後半の文章である。湛増の父・湛快は西暦1174年に死去しているのに,その死後,鳥居禅尼が再婚したとされる行範(西暦1173年死去)との間にできた子・行快は西暦1146年に生まれている。この矛盾をこれらの見解をとなえる人々はどう説明するのか。敬愛する角田文衛氏のみならず,この文の作者SK氏にもお尋ねしたい。どう説明されるのでしょうか。