平安時代の和歌山県「旧南部町」歴史雑感 №Ⅴ

⑤,『中右記』記載の「南部庄」と「亥の野」

『大御記』や憲淳僧正の日記に続いて,一二世紀初期の南部のことを記した史料に,権中納言藤原宗忠が二人の息子を伴って念願の熊野三山(本宮,新宮,那智)へ初参詣した時のことを記した『中右記』天仁二年(一一〇九)一〇月~一一月条がある。この日記は,平安時代に書かれた「熊野詣記」の中でも大変に史料的価値の高いものであるが,現存する日記では,京を出発してから紀伊国在田郡宮原に着くまでの前半の記事が欠落している。
一〇月二一日に宿所であった「切部庄」内の下人の小屋を出発した宗忠ら一行は,「切部川」を渡り「切部山」を下って祓いをおこなった後,「石代王子」に奉弊し,さらにそこを過ぎてから「千里浜」で昼食を取り,塩垢離をおこない身を清めている。その後,「南部山」を越えて「王子社」(三鍋王子のこと)で奉納し,午後三時ごろに「南部庄内亥の野村人宅」に着き,そこに泊まっている。
小山靖憲氏は,これより二年前の嘉承二年(一一〇七)正月二五日に出された官宣旨案(『大日本古文書』高野山文書四)を詳しく分析し,紀伊国では,一二世紀初期にそれまでの免田・寄人型の庄園が次第に領域型の庄園へと発展する契機をつかみ,それと並行して公領の荒廃化が広範に進行し庄園公領制が形成されつつあったことを解明した。郡境を挟んで「南部庄」の東隣に位置していた牟婁郡の石清水八幡宮領「出立庄」でも一一世紀後半から一二世紀前半にかけて庄園制的領域支配の仕組みが確立し始めていたようであるので,詳しい史料がないとはいえ,当時の日高郡「南部庄」でもやはりこのような事態が進行しつつあったことが推定できる。
この史料に出てくる「亥の野」とは,旧南部町芝の小字である「猪野」・「井之谷」・「猪ノ山」付近にあった集落をさしていると考えられるが,後の記載内容(「里,林の中に在り。宅は海浜を占す」)から考えて,この集落はあるいはもっと海に近い浜辺の松林の中に立地していたのかもしれない。
なお,どの程度,信用できるかわからないが,室町時代の「法傳寺地蔵菩薩縁起」によると,一〇世紀頃に「井野ノ山辺」に御堂が建てられていたようであるので,当時の「亥の野」は,「南部庄」内でもかなりの広さを持った地域をさしていたと考えるべきかもしれない。
この夜,紀伊国国司(受領)の目代(国司代行)であった内記大夫知邦や久澄らが,ここに泊まった宗忠らの下へ品物を送ってきたが,嵐の中で響いてくる浪の音と松声の混じり合った音が終夜,彼等を驚かせたようで,宗忠はこれを「京都の人,未だ此の如き事聞かず」と表現している。そして,翌二二日夜半,彼等一行は宿所を出発し,残月の下で「南部野山」を過ぎ,海岸を通って牟婁郡に入り,「早」(田辺市芳養町)の浜に出ている。彼等一行は,このまま何日かかけて熊野三山に参詣し,帰途,一一月四日午後二時頃に再び南部を通りそこで昼食を取り,その日は「印南藤中納言庄」の下人宅(所在地は現在の印南町印南)に泊まっている。宗忠らが旅したのが新暦でいうと一一月から一二月にかけてであったため,行程は吹雪のため非常に寒く堪え難かったようである