熊野出身の『新古今和歌集』の歌人・「法橋行遍」略伝

[行遍](ぎょうへん)

 『新古今和歌集』の歌人として名が知られるが,本業は熊野新宮の社僧・御師である。19代熊野別当行範の6男。母親は源為義女(「たつたはらの女房」,「鳥居禅尼」,「熊野禅尼」ともいう)で,その4男に当たる。源頼朝は行遍の母方の従兄弟に当たる。
 生没年共に不明であるが,近年,西暦1146年生まれの3兄行快(「たつたはらの女房」の2男),西暦1148年生まれの4兄範命(「たつたはらの女房」の3男)などとの関係から,1150年代前後に生まれたとする見解が出されている。
 なお,国文学会には,『新古今和歌集』の「法橋行遍」を,鎌倉時代中期に活躍した東寺四長者の1人である大僧正行遍(1181~1264)とみなす説があり,岩波書店発刊の『新古今和歌集』の解説などがこの説を一部採用しているが,今やこの説が全く成り立たないことは,川田順氏の説を引き合いに出すまでもなく確かであろう。この説はそもそも『尊卑分脈醍醐源氏系図の任尊子行遍への註釈(「新古作者」とある)を基に成立した説で,今のところこれ以外にこれといって証拠となる史料がない。
 『新古今和歌集』に収められた歌は,「みし人はよにもなぎさのもしほ草かきおくたびに袖ぞしほるる」(詞書付き),「名残をばにはのあさぢにとどめおきてたれゆゑ君がすみうかれけん」,「あやしくぞかへさは月のくもりにし昔がたりによやふけにけむ」」(詞書付き),「たのみありていま行末を待つ人や過ぐる月日をなげかざるらむ」の4首。
 『新古今和歌集』の「あやしくぞかへさは月のくもりにし昔がたりによやふけにけむ」の歌に付けられた詞書によると,行遍は,若い頃,熊野新宮の社僧・御師としてその社務・世業に従いつつ,熊野で修行する西行法師から和歌の作り方を習ったようである。
 元久元年(1204),「熊野行遍法橋」は,『新古今和歌集』の撰者の一人である京の都の藤原定家を訪ね,西行のことなどを懐かしく語り合った(『明月記』元久元年6月15日条)という。この結果,『新古今和歌集』に「法橋行遍」という名前で「見し人は世にも渚の藻塩草書き置くたびに袖ぞしをるる」以下の和歌4首(詞書つき2首)が入撰した。
 元久2年(1205),実兄の23代熊野別当範命の推挙により,法眼に叙任された(『明月記』元久元年1月1日条)。
 行遍は,鎌倉時代初期の西暦1210年前に死去。享年60歳前後か。極位は法眼。