「熊野の御師」研究其2

まずは,敷屋庄の御師・敷屋氏について。

弘安元年(一二七八)一〇月付けの「敷屋庄司兼能・御本預光俊寄進状」(『西福寺文書』1号〈『和歌山県史 中世史料二』所収〉)に,寄進者として「敷屋庄司兼能・御本預光俊」のことが出てくる。西福寺は,仁和寺宝蓮院領西椒庄内にあった寺院で,現在は和歌山県有田市初島町浜脇本に薬師堂一宇だけが残され,その往時を偲ばせている。敷屋庄司氏(紀氏)は有田郡の紀氏と同族のようで,熊野地方に移住した後もこの地に何らかの地権を有していたのであろう。
なお,熊野地方における敷屋氏の本拠は東敷屋の下地付近だったようで,ここにはかつての敷屋氏の屋敷跡(「本家」とよばれているが,現在は敷屋氏と関係のないT氏の住家になっている)と菩提寺だった長昌寺の寺跡と墓地跡が僅かに残されている。敷屋庄司氏〈一二七八~一三六六年にかけて文書に登場〉が,「敷屋岸殿」〈一三七九~一四五七年にかけて文書に登場〉ともよばれるのは,本宮から舟で下っていく途中の熊野川右岸に屋敷を構えていたからであろうと思われる。なお,熊野川右岸には,舟で西敷屋の小山神社付近に至る渡場の跡が残されている。かつて敷屋氏が奉祭し,西敷屋にあって東敷屋・西敷屋・篠尾・四村荘・小津荷・大津荷・津荷谷七村の産土神とされた「妙見社」とは,この小山神社をさしているのではあるまいか。
なお,「御本」(新宮市)は地名で,「御本預光俊」とは,光俊が「御本」の預職を持っているということを示している。これを『和歌山県史 中世史料二』のように,「本預光俊」と読むのは誤りである。ところで,「御本」については『中右記』天仁二年(一一〇九)一〇月二九日条に「此里号御妹云々,是熊野御領所」と出て来るのが初見であるが,興国七年(一三四九)八月一三日付けの「愛洲憲俊譲状」(『大日本史料』六-一〇)に「みもとの名田」,応永一七年(一四一〇)三月一〇日付けの「相須おう四郎左衛門畠地売渡状」(「中原家文書」〈『和歌山県史 中世史料二』所収〉)に「みもとのあいすのおう四郎三へもん」,応永二三年(一四一六)九月二七日付けの「屋敷売券」(「米良文書」〈『熊野那智大社文書』所収〉)に「御本のあいす」,『熊野詣日記』応永三四年(一四二七)九月二九日条に「みもとにて御舟をととむ」などの記事が散見される。「御本」は,東西敷屋から川を下った熊野川を挟む旧日足村(新宮市日足)の「相須」をも含む地域をさしていたようである。

(端裏書)
「御キシン状」
西福寺
 奉寄進水田壱段 号御給寺前,事
右田地者,僧西仁房相伝之地也,而依有敬信,御年貢并恒例臨時万雑公事等,為衆病失除・所願成熟,所奉寄進当寺医王菩提也,未来際,更不可有依違之状,如件,
  弘安元年十月 日
             敷屋庄司兼能(花押)
             御本預 光俊(花押)