熊野修験・熊野別当

「熊野別当」についての私見

木曽福島の紅葉です。 ある本に、熊野三山が「熊野三山検校」によって実効支配される以前に熊野三山の実務上の最高管掌者であった「熊野別当」について書きましたので、やや補足しつつ紹介します。 「熊野別当は,熊野三山に奉仕する社僧や神官達の実務上の…

「熊野三山検校」についての私見

ある本に熊野三山の最高権威「熊野三山検校」について書きましたので紹介します。 「熊野三山検校職は、寛治四年(1090),熊野参詣が隆盛になったため,地方霊場としての熊野三山を組織的に管理する必要性から,在地で行政上の実権を握っていた熊野別当の…

「那智権現縁起絵巻」の残欠

これは「那智権現縁起絵巻」の残欠と思われるもので,ほぼ真ん中に縮小された那智の大滝が描かれています(1枚目の写真)。 滝の下の小さな橋の右側に,草葺き屋根の庵が描かれています。その上に「那智籠庵室」の文字がしっかりと書かれています。たぶんここ…

14世紀前半制作の三井寺(園城寺)古図に描写された「熊野社」

熊野と修験道寺門派の関係を具体的に示すと思われる,滋賀県大津市にある三井寺の境内古図に描写された「熊野社」を紹介します。 鎌倉時代末期(14世紀前半)に制作されたとされる三井寺(園城寺)古図(5幅)の中の1幅「中院」古図に,切妻造り・庇(向拝)付きの…

熊野那智の二の滝と三の滝

熊野那智の滝は有名な一の滝を含めると48滝(実数は60滝以上)あるといわれていますが,あまり映像は知られていないと思いますので,ここでそのうち二の滝と三の滝を紹介します。 二の滝は高さが23mあります。「木葉返しの滝」とか,「如意輪の滝」(西行命名)…

鎌倉時代の熊野牛玉宝印の1例

以前にも紹介しましたが,熊野牛玉宝印は熊野参詣の隆盛と共に霊験著しいものとして珍重されたため,その熊野牛玉宝印の裏面は起請文として広く利用されました。 起請文としての利用例は,『玉葉』寿永3年1月9日条(源義仲と平氏との間で和平協定を結ぶ際…

熊野本宮の牛玉宝印と大日さんの御札

1枚目は,「熊野山宝印」です。現行の熊野本宮大社の牛玉宝印(ごおうほういん)です。 2枚目は,湯ノ峰温泉から熊野本宮にいたる大日越にある「大日堂の御札」です。朱印は熊野本宮大社のそれと酷似しています。 以上,『國學院大學所蔵の牛玉宝印』(神道資…

英賀神社伝来の梵鐘

この梵鐘は兵庫県姫路市の英賀(あが)神社に伝来した梵鐘です。写真は『祈りの道-吉野・熊野・高野-』から掲載させていただきました。 何故,これを紹介させていただくかと言いますと,ここに記された銘文に,熊野地方の歴史を知る上で色々と役に立つ情報が…

熊野三山検校行尊の『新古今和歌集』断簡

熊野三山検校行尊の『新古今和歌集』断簡を,関西大学教授・田中登氏論「伝後鳥羽天皇筆・水無瀬切」〈『小さな蕾』306号,1994〉より引用・紹介させていただきます。 熊野三山検校行尊(1055~1135)は,参議源基平子で,天台宗の園城寺で出家し,大峰山・葛…

熊野速玉大社所蔵の「熊野別当代々次第」の一部

写真を整理していたら,熊野速玉大社所蔵の「熊野別当代々次第」を写真に撮ったY氏からいただいた写真が出てきました。 皆様に現物を見ていただくことも大切と考え,ここに17代から20代にかけての熊野別当をつとめた4人の別当の写真を紹介します。 同時に…

新説・垂迹神降臨場としての乳岩。伝説は何を語るか。

静岡県袋井市教育委員会の山本義孝氏によって確認された田辺市中辺路町滝尻の山伏の行場を,昨年の12月に見学しました。 古記録には全く記されていない「不寝王子社」(ねずおうじしゃ)のすぐ近くに,「乳岩」(ちちいわ)がありますが,この「乳岩」は児玉荘左…

熊野三山の奥の院・奈良県玉置山の修験

日本山岳修験学会理事で,静岡県浅羽町郷土資料館勤務の山本義孝氏から,奈良県玉置山の修験の写真をお借りしました。熊野三山の奥の院・奈良県玉置山について紹介させて頂きます。 私もかつて冬の寒い時に息子と二人で玉置山登山をおこないました。でも,山…

「熊野別当と栃木県足利市」の再掲・追加

これは,ウェブサイト「新史跡草子」の主催者AY氏に教えて頂いた情報をもとに作った紀州の熊野別当と栃木県足利市に関する雑文です。 再度掲載したついでに,新しく鑁阿寺の仁王門(山門)の写真を載せておきます。 AY氏によりますと,『大日本史料』安貞…

ついでに壇ノ浦合戦と湛増のかかわりを元和九年本『平家物語』にて紹介。

かなりしつこいですが,あまり現代の人たちには知られていないようなので,ついでに壇ノ浦合戦と熊野別当・湛増とのかかわりを元和九年本『平家物語』にて紹介させていただきます。 なお,インターネットで引用させていただきました「平家物語(流布本 元和九…

必要があって,熊野別当「湛増」略伝を一部手直しして再度掲載。

熊野別当「湛増」略伝 湛増は,平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した熊野本宮の社僧・御師。後に熊野別当に任ぜられる。生年:西暦1130年。没年:西暦1198年。 熊野本宮常住の18代熊野別当湛快(1099~1174)の次男。母親は不明(言い伝えによる俗説はあ…

熊野古道を歩いて来ました。

昨日午後,私を講師とする10数人のグループで,研修のため高原を少し上った場所から滝尻の間の熊野古道を歩いて来ました。 距離は4㎞程度とたいしたことはなかったのですが,途中,本宮長床衆(山伏)が尾根を走る中世の熊野古道沿いにきずかれた高原経塚や…

切目王子社をめぐる新解釈。

昨日,日本山岳修験学会理事て修験道考古学の専門家である山本義孝氏に紀南文化財研究会でご講演いただきました。約40名の方々が参加してくれました。 山本氏は一泊され,本日,T氏の案内で印南町の切目王子社,さらには田辺市の闘雞神社,上富田町の稲葉…

修験道考古学の勉強。

昨日の11月12日,修験道考古学の権威・Y氏の案内で熊野の山中をゆっくりと歩き,修験道考古学の立場から遺跡をどのように見たら良いか,従来の考え方とは違う全く新しい見方をご教示いただきました。 まず午前中,本宮の備崎経塚遺跡(尾根の部分にあり,12…

滝尻遺跡調査はじまる。

昨日の11月11日,考古学研究者・Y氏(日本山岳修験学会理事)と,助手のS氏が田辺市にある修験道関係遺跡調査のために来訪されました。紀南文化財研究会からは,T氏(理事),私S(理事)が参加しました。 当日は雨が降り,しかも大雨になりました。滝尻王子神…

滝尻遺跡調査,本宮備崎見学のスケジュール

明日,考古学研究者・Y氏(日本山岳修験学会理事)と,助手のS氏が田辺市内修験遺跡調査のために来訪。 紀南文化財研究会のT氏(理事),F氏(副会長),S氏(理事,日本山岳修験学会評議員,日本考古学研究会会員)らが参加予定。 11月11日(土) 午前10時ころか…

大阪府犬鳴山修験護摩たき儀式

去年,大阪府泉佐野市の犬鳴山で第26回日本山岳修験学会学術大会が開かれました。 その際,写した犬鳴山修験護摩たき儀式の写真を載せておきます。雨の中で大変しんどい思いをしましたが,ご協力いただいた皆さま,ありがとうございました。

熊野別当の風体

昨年のNHKドラマ「源義経」に登場した俳優・原田芳雄扮する熊野別当湛増のむさくるしい姿にはびっくりさせられましたが,熊野別当が正式にどのような格好をしていたか,想像を交えながら紹介してみます。 熊野別当は平安時代から鎌倉時代にかけて,上皇・…

紀伊熊野三山,出羽三山,名取熊野三山を繋ぐ糸

昨夜,関東地方や東北地方で熊野信仰の影響問題に関係する色々な問題が新たに提起されていることを日本中世史アーカイヴズ掲示板で知りました。 この情報は,あくまでも,人を介した情報ですので,今の段階で詳しく論評することはできませんが,「ベアー・フ…

熊野別当と上総国畔蒜南北荘・相模国愛甲荘・備中国穂太荘

これもまた,ウェブサイト「新史跡草子」の主催者AY氏に教えて頂いた情報をもとに作った熊野別当と相模国愛甲荘・上総国畔蒜南北荘に関する雑文です。 前から気になっていた史料に,AY氏ご指摘の寛元元年(1243)7月28日付けの「将軍藤原頼経家政所下文」…

熊野別当と栃木県足利市

これは,ウェブサイト「新史跡草子」の主催者AY氏に教えて頂いた情報をもとに作った熊野別当と栃木県足利市に関する雑文です。 AY氏によりますと,『大日本史料』安貞2年(1228)7月条(第5編第4冊のP646)に,「熊野別当代々次第」が掲載され,罪をえて…

熊野別当「湛増」のイメージ試作

これは,あるサイトの主催者AY氏とのインターネット対話から生まれた文です。対話の目的は,湛増を漫画的・劇画的に描くためのイメージを作るためのものでした。 ①,湛増(1130~1198)は官僧ですので、公式行事の際の正装としては五条袈裟を着用していたと…

熊野別当「教真」伝説の余波!!!!

ここ十数年,熊野三山を統轄・支配していた熊野別当が日本史研究の上でどのように扱われているか興味を持ち調査してきました。 特に18代別当湛快とその次男の21代別当湛増,さらには湛増の義母に当たる鳥居禅尼(湛増は彼女の娘婿)の扱われ方に不当なものを感…

熊野別当「湛増」略伝

熊野別当「湛増」略伝 平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した熊野本宮の社僧・御師。後に熊野別当に任ぜられる。 生年:西暦1130年。没年:西暦1198年。 熊野本宮常住の18代熊野別当湛快の次男。母親は不明。源為義女の「たつたはらの女房」(「鳥居禅…

熊野別当湛増についての誤説,もういい加減にしてほしいなあ

あるHP(ブログかな)に次のような文章がありました。書いたご本人の責任ではないと思うが,熊野別当を研究している者の立場から言うとこのようなとんでもない誤解はもういい加減にしてほしいと思う。 <「平家の重恩の身」と書かれている湛増は、十八代熊野…