飛鳥・奈良時代の和歌山県「旧南部町」歴史雑感 №Ⅲ

③,南部郷の条里制と景観

条里制とは、古代の律令制府の指令によって碁盤目状に区画された画一的な土地地割のことである。当時の政府は、土地制度である班田収受制度にもとづき農民への土地分与ならびに収公、さらに課税などを円滑におこなうため、その耕地の所在が何条何里の何坪の土地というように、数詞で明確に表示されるよう、このような地割を設定したわけである。
前節でも簡単にふれたように、旧南部郷の郷域に含まれる南部川流域には、整然として条里型地割が残存している。その面積は約一八〇町歩である。和歌山県の条里制について詳細に研究している中野栄治氏によると、その条里型地割の方位は、N三〇度Eであるとのことである。日高郡最大の条里制地割とされる御坊条里(日高郡御坊市にまたがる広大な条里、その面積は約五三〇町歩)の方位とは約四五度のずれがあるが、南部の条里型地割は、南部川や古川と並行し南部の沖積平野の輪郭と傾斜にほぼ合致するように設定されていることがわかる。
南部の条里は、一辺約一〇九mの一町方格(おのおの、小字名が付けられている)で構成されている。割は坪内地、長辺約一〇九m、短辺八~一五mの区画からなる長地型またはその変形である。現在の水路は、そのほとんどが用排水兼用であるため、一筆ごとに水路へ堰板をあて灌漑をおこなっている。地下水位は高く、その耕地の多くは湿田及び半湿田であったようである。このような地割は、まさに稲作のための水田地割として開発されたことがわかる。
なお、地割の撹乱は、南部川の東に形成された自然堤防と、古川両岸の自然堤防ぞいの地域に見られるが、南部川・古川下流域に条里の地割は検出されていない。元来そこに条里がなかったのか、それとも南部川及び古川の氾濫と堆積作用によって、その痕跡が全く失われてしまったのか、現在の所不明である。
坪名としては「大坪」「森坪」「西ケ塚」「松ケ坪」「塚ノ坪」「町ケ坪」「一丁田」「草縄」「膀示」「畔坪」「大縄場」「大ノ坪」「田辺ケ坪」などの地名が注目される。しかし,数詞坪名は遺存せず,条里界線の復元は困難である。
この古代の土地制度を物語る素晴らしい条里制の景観を,私達は貴重な文化財として保存していきたいものである。しかし現在,高速道路の開通や田圃整理事業の進展により,ほぼ完全にその景観は失われてしまった。何と言ったら良いか・・・・(涙,涙)。