平安時代の和歌山県「旧南部町」歴史雑感 №Ⅱ

②,花山法皇と千里ノ浜

一〇世紀末期の南部のことを記載した文献として『栄花物語』『大鏡』『宝物集』『後拾遺和歌集』などがある。これらはいずれも,藤原兼家らの計略によって若くして出家させられた花山法皇が熊野参詣からの帰途,南部町内の「千里ノ浜」で詠んだ和歌とそれにまとわる説話を記載したものである。それらによると,花山法皇は寛和二年(九八六)六月に出家した後に書写山比叡山を巡り,ついで熊野の那智山で激しい仏道修行をおこなった。その帰途,「千里ノ浜」で病気になり,石を枕に臥せっていたところ,近くで海人たちが海水から塩をとるため火を燃やしている情景が見えた。その時,恐らく焼いた煙が法皇の寝ていた枕元に漂ってきたのであろう。まるでその煙が病気によって死んだ自分を火葬する煙のように見え,急に心細くなって「旅の空,夜半の煙と上りなば,あまの藻塩火たくかとや見ん」と和歌を詠んだようである。
「旅」は「荼毘」に掛ける言葉である。特に,後半の「あまの藻塩火たくかとや見ん」(たとえ自分を火葬する煙であっても,他の人はこの煙を海人が塩をとるために焼いている煙としか見ないであろう,という意味)という部分に,心身が弱りやや自嘲気味になっていた法皇の心理状態がはっきりとあらわれているように思える。
花山法皇が病で臥せっていた場所は特定することはできないが,塩を焼いたという場所はだいたい推定できる。そこはたぶん,「千里ノ浜」南端で近年発掘調査された大目津泊り遺跡(第五章第二節で特に詳しくふれた,縄文時代に始まり平安時代まで続いた土器製塩遺跡)であろう。この遺跡は,平安時代になってその生産規模を縮小していたとはいえ,本来,製塩遺跡としてはかなり規模の大きい製塩工場の跡地であったと思われる。
ところで,南部平野の奥まった所にある旧南部川村西本庄の南部川畔に,一条天皇の時代(九八六~一〇一一)に創祀されたとの伝承をもつ須賀神社(祇園御霊社,南部郷一五カ村の総鎮守社)がある。この須賀神社の神宮寺に,かつて本地仏として薬師如来坐像が所蔵されていたようであるが,現在,堀籠氏(須賀神社社家の吉田氏末裔)の薬師堂(旧南部町東吉田)に,旧須賀神社蔵との伝承をもつ,一〇世紀後半から一一世紀前半かけて制作されたという薬師如来坐像が安置されている。どうやら,この頃の南部郷では,この須賀神社を中心にして後の南部庄に繋がる新たな動きが始まっていたようで,次節で述べる「美奈倍」の道祖神の話もこのような新しい動きを反映していたものと考えるべきかもしれない。