「熊野の御師」研究

『とはずがたり』の著者二条と中世前期の那智御師

熊野御師の情報収集のため,久我雅忠女である後深草院二条の『とはずがたり』(福田秀一校注『新潮日本古典集成・とはずがたり』〈1978〉)を読みました。 二条という女性は悪女でうそつきだという評判はありますが,非常に魅力的な女性のようです。 嘉元3年(…

御師研究の進捗状況

御師研究の進捗状況 11月の某学会で発表し(僅か20分),機関誌に投稿する予定の下原稿を半分書き上げました。たとえ完成しても全体構想の何分の一にしかあたりませんが,見通しを付ける意味で最初の論文は非常に大事になります。 全力を尽くそうと思っている…

『とはずがたり』の著者二条と中世前期の那智御師

『とはずがたり』の著者二条と中世前期の那智御師 昨日から,熊野情報収集のため,久我雅忠女である後深草院二条の『とはずがたり』(福田秀一校注『新潮日本古典集成・とはずがたり』〈1978〉)を読んでいます。二条という女性は魅力的な女性ですね。 嘉元3…

「熊野の御師」研究其7

康正三年(一四五七)九月八日付けの「播磨国坂越檀那願文」に,本宮御師として「色屋(敷屋)半左衛門御方」が登場している。 本宮御師願文事 合 右,色屋半左衛門御方へ披面相違無可参者也,仍願文,如件 康正丁丑九月八日 播州坂越長楽寺住 如意坊 良清(花押)…

「熊野の御師」研究其6

応永二七年(一四二〇)八月一一日付けの「丹波国井原岩屋入峯山伏願文」(『熊野本宮大社文書』65号〈『和歌山県史 中世史料二』所収〉)に,熊野本宮御師として「敷屋のきしとの」(「敷屋の岸殿」)が登場している。 (端裏書) 「たんはの国」 にうふの山伏三人 …

「熊野の御師」研究其5

応永一五年(一四〇八)卯月七日付けの「丹波国氷上郡栗作郷久下久元願文」(『熊野本宮大社文書』57号〈『和歌山県史 中世史料二』所収〉)に,御師として「しきやのきしとの」(「敷屋の岸殿」)が登場している。 丹波国氷上郡栗作郷内王巻村久下新左衛門久元(花…

「熊野の御師」研究其4

康応二年(一三九0)二月二二日付けの「丹波国春日井庄玉泉坊引檀那願文」(『熊野本宮大社文書』42号〈『和歌山県史 中世史料二』所収〉)に,本宮御師として「しきやのきしとの」(「敷屋の岸殿」)が登場している。 たんはのくにひかミのかうりかすかいしやう…

「熊野の御師」研究其10

次に,敷屋氏の続編(其4~8)を飛ばして,御師・見座氏について。 見座氏の本拠地は西敷屋にあったようで,熊野川左岸に子孫が住む立派な石垣のある屋敷が残されている。 嘉慶二年(一三八八)三月二八日付けの「ミさの三郎右衛門入道山譲状」に,譲渡者とし…

「熊野の御師」研究其3

正平八年(一三五三)六月一七日付けの「かねゆき用途請取状」(「新出熊野本宮大社文書」13号〈『山岳修験』九号所収〉)に,「かねゆき」(兼行)が,熊野本宮の用途に使われた一〇貫文(現在の金額に置き換えると約一〇〇万円に相当)のうち九貫文を受け取ったと…

「熊野の御師」研究其2

まずは,敷屋庄の御師・敷屋氏について。 弘安元年(一二七八)一〇月付けの「敷屋庄司兼能・御本預光俊寄進状」(『西福寺文書』1号〈『和歌山県史 中世史料二』所収〉)に,寄進者として「敷屋庄司兼能・御本預光俊」のことが出てくる。西福寺は,仁和寺宝蓮…

「熊野の御師」研究其1

最近,「熊野の御師」に興味をもち,取り敢えず熊野本宮領であった紀伊国敷屋庄内在住の御師について古文書やかつての居住地などについて調査・研究しています。 現在わかっている限りでは,かつての敷屋庄の所在地は,旧熊野川町,現在の新宮市東敷屋・西敷…