熊野別当「湛増」のイメージ試作

 これは,あるサイトの主催者AY氏とのインターネット対話から生まれた文です。対話の目的は,湛増を漫画的・劇画的に描くためのイメージを作るためのものでした。
 
 ①,湛増(1130~1198)は官僧ですので、公式行事の際の正装としては五条袈裟を着用していたと考えられます。ただ,普段の格好はどうか,ということになると,髪の毛をきれいに剃り上げていました。髭を伸ばしていなかったことは当たり前でしょうが,下に袴をはき,その上から白衣だけを着ていたでしょうね。でも,戦いの時,甲はかぶらず布で頭を覆い,白衣の上に鎧をまとっていたことでしょう。手には当然,薙刀を持っていたことでしょうし,太刀もさしていたでしょうね。なお,湛増は源平内乱時,法眼(三山内での役職は途中,権別当から別当に昇格)の地位にありました。源平内乱2年後の1187年に法印に就任。69歳で亡くなった時には法印権大僧都でした。

 ②,少なくとも,湛快,湛増と2代に渡って熊野三山別当であったということ(熊野山の別当としては,11世紀前期以降,殊勝,泰救,快真,長快,湛快,湛増と6代にわたってその任に就いている),それゆえ,当時のセレブというべき上皇女院,貴族(公家),熊野三山検校,各寺社の別当・権別当や大宮司,さらには将軍,その妻子,有力御家人との交際が常に求められたため,それなりの礼儀・作法が身に付いており,人品骨柄にもそれなりの風格があらわれていたことなどを配慮すべきでしょうね。また,熊野別当家の本姓は虚実不明ながら藤原氏(一応,藤原実方の子孫と公称)です。後に熊野の女性と血が混じり合ったとはいえ,これも,人品骨柄を考える上で配慮すべきでしょうね。
 
 ③,食事の基本は米食でしょうが,トチ・シイといった木の実を食べることも多かったでしょう。そして,忘れてならないことは,少なくとも若い時は,当時の武士と同様,獣(クマ,シカ,イノシシなど)や魚などの肉を食べることが多かったと考えられることです。身長は分かりませんが,がっしりとした体格だったと思います。

 ④,たぶん闘争心からくる野性味は特に若い頃は外にあらわれていたことでしょう。高い役職に就いてからはこれを中に秘めるようになっていたでしょうが・・・・。