熊野別当と上総国畔蒜南北荘・相模国愛甲荘・備中国穂太荘

 これもまた,ウェブサイト「新史跡草子」の主催者AY氏に教えて頂いた情報をもとに作った熊野別当相模国愛甲荘・上総国畔蒜南北荘に関する雑文です。

 前から気になっていた史料に,AY氏ご指摘の寛元元年(1243)7月28日付けの「将軍藤原頼経家政所下文」(『鎌倉遺文』6207号文書)という史料があります(『長府毛利家文書』)。

将軍家政所下 散位藤原清俊
  可令早領知熊野山領相模国愛甲荘・上総国畔蒜南北荘領主職、備中国穂太
  荘預所下司両職事
右任母堂<鶴熊>今日譲状、<子細載之>為彼職守先例可令致沙汰之状、所仰如件、以下、
寛元元年七月廿八日
(下略)

 特に私が気になっていましたのは,今年話題の山内一豊(江戸時代の土佐藩主)の先祖の弟に当たる藤原清俊(山内首藤四郎清俊)がなぜ,熊野山領を母親の「鶴熊」から譲られたか,ということです。上総国畔蒜南北荘が21代熊野別当湛増(1130~1198)に縁の荘園であったことは『吾妻鏡』でよく知られていますし,相模国愛甲荘や備中国穂太荘もまた源為義から熊野山に寄進された荘園であることは明瞭です。

 そこで,私は想像しました。もしかすると,「鶴熊」は湛増の娘の1人ではないか。そこで,考えられることは,まず湛増から娘に譲られた上総国畔蒜南北荘領主職と、源為義女である鳥居禅尼をへてその娘の湛増の妻に譲渡された相模国愛甲荘や備中国穂太荘などが,後に「鶴熊」をへて湛増の孫に当たる藤原清俊(首藤山内清俊)に譲渡されたのではないか,ということです。

               ―俊家
 首藤経俊――重俊――宗俊――時通
            | ――清俊
           鶴熊

 湛増の息子の名前は殆どわかっていますが,娘の名前は1人もわかっていません。もしこの推測が正しければ唯一の例ということになります。

 しかし,それを裏付ける確かな証拠は全くありません。状況証拠のみです。これでは実証的歴史学とはいえませんね。残念です。

 いずれにしましても,AY氏の情報提供とご指摘に心から感謝申し上げます。