熊野別当「教真」伝説の余波!!!!

ここ十数年,熊野三山を統轄・支配していた熊野別当が日本史研究の上でどのように扱われているか興味を持ち調査してきました。
特に18代別当湛快とその次男の21代別当湛増,さらには湛増の義母に当たる鳥居禅尼(湛増は彼女の娘婿)の扱われ方に不当なものを感じあちこちで修正につとめています。
というのは,『屋代本平家物語』や『源平盛衰記』などに登場する「教真」という実在していなかった伝説上の熊野別当を湛快に比定し,鳥居禅尼(当時は丹鶴姫と呼ばれたという)が湛快と結婚して湛増をもうけ,湛快の死後,行範と結婚し範誉・行快以下,数人の子供をもうけたと主張する人々が存在するからです。
その主張の根元は,『紀伊風土記』にあるのですが,有名な宗教民俗学者のG氏が熊野に関する名著『熊野詣』の中でこれを主張することによってまたたくまに拡がり,日本史学会にまで影響を与えるようになりました。
しかし,どうでしょうか。
故人ゆえに反論できないG氏には申し訳ないのですが,歴史学から見ると,やはり「熊野別当」の章の実証性の甘さが気になります。
「教真」に関しては,歴代の熊野別当(増皇,泰救,長快,長範,湛快ら)にまつわる部分的なエピソードの数々を寄せ集めて創られた伝説上の人物と解釈し,まつり上げておく方が良いのではないか。敢えて史実と結び付け新しい解釈(間違った解釈)を行う必要はない,と思います。