「熊野三山検校」についての私見

 
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  ある本に熊野三山の最高権威「熊野三山検校」について書きましたので紹介します。
 
熊野三山検校職は、寛治四年(1090),熊野参詣が隆盛になったため,地方霊場としての熊野三山を組織的に管理する必要性から,在地で行政上の実権を握っていた熊野別当の上に白河法皇によって新設されました。この結果,熊野三山は中央寺社勢力の秩序に組み込まれました。
初代検校には法皇の先達を務めた増誉が任命され,それ以降,検校は行尊,覚宗などの寺門派の園城寺長吏がその職を兼務する権威ある職掌になりました。しかし,その本務は歴代上皇が熊野参詣する際に先達を務め,上皇に対し熊野参詣の際の指導をおこなうことであり,三山支配の実務からいうと名誉職的傾向が濃厚でした。
 
承元元年(1207),後鳥羽上皇の強力な後押しで,仁和寺真言宗)の長厳が検校に任命され,さらに承久の乱後,東寺(真言宗)の定豪が検校に任命されました。
しかし,嘉禎四年(1238),常住院(天台宗)の良尊が検校に任命されるや,再び園城寺の修験者が代々この職に任命されるようになりました。鎌倉時代中期以降,検校が熊野系の地方霊場でその高位の管理権を掌握し,修験者の組織化をある程度達成しました。
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鎌倉時代末期の検校覚助法親王(聖護院門跡)以降,検校職は聖護院門跡の重代職になり,その権威の向上と共にその権限が強化されました。そして,室町幕府の将軍権力との強い関わりの中で,室町時代初期の検校道意によって寺門派内における修験道統括者としての聖護院門跡の地位が確定され,同時に熊野三山への検校職の支配権も確立されました。」