必要があって,熊野別当「湛増」略伝を一部手直しして再度掲載。

熊野別当湛増」略伝

 湛増は,平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した熊野本宮の社僧・御師。後に熊野別当に任ぜられる。生年:西暦1130年。没年:西暦1198年。
 熊野本宮常住の18代熊野別当湛快(1099~1174)の次男。母親は不明(言い伝えによる俗説はあるが,いずれも根拠なし)。源為義女の「たつたはらの女房」(「鳥居禅尼」・「熊野禅尼」)を実母であるとする俗説があるが,これは教真伝説を史実と間違えた『紀伊風土記』以来の妄説。しかし,実のところ「たつたはらの女房」の娘が湛増の妻になっているので,「たつたはらの女房」から見ると湛増は娘婿になる(『延慶本平家物語』源氏勢付事に「熊野別当湛増ハ鎌倉兵衛佐ノ外戚の姨母聟ニテアリケル」とある)。つまり両者は義理の親子ということになるわけである。たぶんこの「義理の親子」という事実が,語り本の『平家物語』の中で,教真伝説と絡ませながら実の親子であるかのように面白おかしく作られていったのであろう。
 湛増は,若い頃,京に住んでいたが,長兄湛実の死後,田辺に帰住し,在地経営と新熊野権現社(闘雞神社)経営に専念。
 熊野別当行範(1115~1173)の死後,承安四年(1174)に新宮別当家出身の20代熊野別当範智(行範の実弟湛増の従兄)の下で熊野権別当に任ぜられた。同時に,五辻斎院頌子内親王領南部庄の下司職を獲得。牟婁郡本宮から日高郡切目まで,熊野参詣道沿いに在地領主としての勢力を拡大。
 治承四年(1180),治承・寿永の内乱(いわゆる源平の内乱)が勃発。法眼湛増は当初,平家の本宮御師という立場から平氏方に味方し源氏方の新宮別当家や那智山衆徒と戦ったが,養和元年(1181)以降,反平氏に転じ源氏方に加担。
 元暦元年(1184),湛増は,源義経の軍勢に占領された京の都で後白河法皇が実施した一連の人事により,念願の21代熊野別当に補任された(『宮内庁書陵部蔵本僧綱補任』)。
 元暦二年(1185),義経の「引汲」によって平氏追討使に任命された湛増が,200艘(一説では300艘ともいう)の軍船に乗った熊野水軍勢2000人(一説では3000人ともいう)を率いて,当初から源氏方として壇の浦の海戦に参加し,河野水軍・三浦水軍らとともに,平氏方の阿波水軍や松浦水軍などと交戦し,源氏の勝利に貢献した(『覚一本平家物語』,『延慶本平家物語』)。
 文治二年(1186),熊野別当知行の上総国畔蒜庄地頭職(これは北条本『吾妻鏡』にもとづいているが,吉川本『吾妻鏡』にもとづく野口実氏によると,「地頭職」は「領家職」の間違いとのこと)を源頼朝から宛行われ,鎌倉殿の御家人となった(『吾妻鏡』文治二年六月一一日条)。
 文治三年(1187),法印に叙せられ(『吾妻鏡』文治三年九月二〇日条),改めて正式に熊野別当に補任された(「熊野別当代々次第」)。
 建久六年(1195),上京していた鎌倉幕府の初代将軍頼朝と対面し,頼朝の嫡男頼家に甲を献じ,積年の罪を赦された(『吾妻鏡』建久六年五月一〇日条)。
 建久九年(1198)に死去。享年69歳。極位は法印権大僧都(「熊野別当代々次第」)。本宮か田辺に墓堂がつくられ,桂林房上座覚朝が墓守をつとめたという(『古事談』)。
 湛増の子は息子が7人(湛顕,実増,湛勝,湛真,湛全,湛円ら),娘が5人であった。嫡男の湛顕は1155年頃に生まれ,1202年頃に死去したと考えられる。
 以上,阪本敏行『熊野三山熊野別当』(清文堂出版,2005年)を参照。