「熊野別当」についての私見

 
  木曽福島の紅葉です。
 
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   ある本に、熊野三山が「熊野三山検校」によって実効支配される以前に熊野三山の実務上の最高管掌者であった「熊野別当」について書きましたので、やや補足しつつ紹介します。
 
熊野別当は,熊野三山に奉仕する社僧や神官達の実務上の最高管掌者(長官)で,代々社僧の一員として妻帯世襲を認められて来ました。
熊野別当の来歴記録として,初代別当の「快慶」以来,31代の別当の名前と就任年及びその年数,各々の繋がりなどを記した「熊野別当代々次第」と,別当「長真」から別当「定遍」(40代)までの9名の別当の名前を追記した「二中歴」や「熊野別当系図」などがあります。しかし,それらの記録はかなりの信憑性をもつ文献であるとはいえ,記載された内容をそのまま歴史的事実として完全に信用することはできません。
 
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熊野別当の名前が確かな歴史文献の上に登場しますのは,『権記』の長保2年(1000)の記載が初見で,そこに別当「増皇」の名前が登場します。別当「増皇」は,鎌倉時代初期に編纂された『諸山縁起』では初代の本宮別当「僧皇」として登場します。
承保2年(1075)に別当に補任された「長快」(15代)は,寛治4年(1090)に,白河上皇の熊野参詣の際の功によって熊野の社僧として初めて法橋の位を与えられ,僧綱に列し、法眼をへて法印まで昇り詰めました。
その結果,「長快」以後,別当家の中から法印「長範」,法眼「長兼」,法印権大僧都「湛快」,法印「行範」など多くの僧綱が輩出することになり,別当家は新宮別当家、石田家、田辺別当家、佐野家などの有力諸家に分立しつつ、源平の争乱すなわち治承・寿永の内乱(11801185)をへて鎌倉時代前期の別当法印「湛増」,別当法印権大僧都「行快」,別当法印「範命」,別当法印権大僧都「湛政」などの時代に全盛時代をむかえました。
ところが,鎌倉時代後期に,後継の別当職や鎌倉幕府との関係をめぐって内部で対立と抗争が起こり,別当家は次第に分裂と衰退を早めていきました。
しかも,徳治3年(1308)に発生した「西国ならびに熊野浦々海賊」の一斉蜂起以後,非・反別当家系の新興武士団が各々独自の行動を取り始め,別当家の統制に従わなくなりました。
こうして,別当を取り巻く社会状況は明らかに変わり,熊野別当は,観応元年(1350)に登場した別当「快宣」を最後に,南北朝動乱の最中,歴史の表舞台から消えて行きました。」