熊野三山検校行尊の『新古今和歌集』断簡

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 熊野三山検校行尊の『新古今和歌集』断簡を,関西大学教授・田中登氏論「伝後鳥羽天皇筆・水無瀬切」〈『小さな蕾』306号,1994〉より引用・紹介させていただきます。

 熊野三山検校行尊(1055~1135)は,参議源基平子で,天台宗園城寺で出家し,大峰山葛城山・熊野などで修験者として修行しました。

 まず,白河法皇の先達をつとめ,鳥羽天皇の護持僧にもなりました。さらに後に権大僧正を経て大僧正に補任されました。

 そして,1116年には,2代熊野三山検校に補任されました。当時の熊野三山の事実上の管掌者は熊野別当法印長快(1037~1122)でした。その後は,長快次男の長範(1089~1141)が熊野別当になりましたので,行尊とは出会うことが多かったことでしょう。

 行尊は,園城寺長吏として,一時衰退していた園城寺を復興させました。

 また,行尊は,歌人としても有名でその和歌は『新古今和歌集』や『小倉百人一首』にも収録されています。歌集として『行尊大僧正集』があります。

 ここに紹介する和歌は,田中登氏所蔵の,鎌倉時代初期に書写されたとされる『新古今和歌集』巻17雑中の断簡です。この和歌の田中登氏の釈文は次の通りです。

  くさのいほゝいとひてもまたいかゞせん
  つゆのいのちのかゝるかぎりは
    みやこをいでゝひさしく修行し侍
    けるに,とふべきひとのとはず侍ければ
    くまのよりつかはしける
          大僧正行尊
  わくらばになどかは人のとはざらん
  おとなしがはにすむ身なりとも

 この和歌の前書きに「くまの」,そして「おとなしがは」とありますが,ここは2代熊野三山検校行尊が居住していた場所です。後者の川名からここが熊野本宮(現在の田辺市本宮町)であることがわかります。
 住坊はどのあたりにあったのでしょうね。音無川畔よりの場所にあったのでしょうか。

 この断簡が,後鳥羽天皇の真跡かどうかは素人の私にはわかりませんが,世々,「水無瀬切」として伝承されてきたようですので,このことを尊重したいと思います。