熊野別当と栃木県足利市

 これは,ウェブサイト「新史跡草子」の主催者AY氏に教えて頂いた情報をもとに作った熊野別当と栃木県足利市に関する雑文です。

 AY氏によりますと,『大日本史料』安貞2年(1228)7月条(第5編第4冊のP646)に,「熊野別当代々次第」が掲載され,罪をえて足利に流されていた25代熊野別当琳快(将軍頼朝の従兄22代熊野別当行快の次男)が没したことが記されているそうです。しかもそこには,「[  ]與承久合戦之後、依隠置二位法印新兵衛□、此之間依不浅其罪科」と記されていますが,注において「新兵衛□」がかつて鎌倉幕府の侍所別当であった和田義盛の孫に当たる和田朝盛に比定されているそうです。

 『吾妻鏡』安貞元年(1227)6月14日条に,二位法印尊長が8日に没した記事の後に,その時逃げることに成功した「和田新兵衛尉朝盛法師」が生け捕られている記事が掲載されていることを典拠に、「熊野別当代々次第」の記事に登場する「新兵衛□」を和田朝盛に比定したのだろう。

 しかし、これだけでは今1つ根拠に乏しい。琳快と和田朝盛を結ぶものは何だろうか?

 AY氏によりますと,栃木県足利市郷土史家柳田貞夫氏が『在地土豪南北朝の動乱』(私家版)で言及されたそうですが、足利西部の大寺院小俣鶏足寺のあった付近が藤原姓足利氏没落後、しばらく和田氏が領有していた可能性を指摘されているそうです。

 また、『吾妻鏡』文治2年(1186)6月11日条に21代熊野別当堪増が地頭もしくは領家として知行する上総国の畔蒜荘について、北条本では「上総介」(通説では足利義兼をさす)と和田義盛,吉川本では「相馬介」(野口実氏はこの人物を相馬貞常に比定)と和田義盛がともに下知に背いて年貢を滞納して、湛増に訴えられています。熊野別当家と和田氏との繋がりは案外こんなところがもとになって作られていったのかもしれません。

 AY氏に心から感謝申し上げます。