世界の聖地

30数年ぶりに東大寺へ。

今日から4日前の5月16日の午後、近鉄奈良駅から歩いて30数年ぶりに東大寺へ行って来ました。以前から奈良国立博物館や興福寺近辺まではよく来ていたのですが、さらにその奥に入ったのは本当に久し振りでした。 いつものようにシカがお出迎え。 まず、南大…

40数年ぶりに大阪の住吉大社に参詣してきました。

今年の9月吉日、普段から色々とお世話になっている大学の先輩・鶴崎裕雄先生(T大学名誉教授)の喜寿祝賀会へ行って来ました。 心を通わされた多くの方々に祝っていただいた先生の幸せそうなお顔ったら・・・・。そばで見ていて、私もこんな人生をおくれ…

熊野本宮大社社殿の修復

しばらく東京とその近辺にいました。学会の仕事がすんだ後、序でに孫たちと遊んできました。孫たちは大きく可愛くなっていました。保育所や小学校、保護者たち主催の縁日に行きましたが、入口近くにピンク色のフヨウの花が綺麗に咲いていました。 東京から…

熊野市有馬町の産田神社の「垢離掻場」・「まないたさま」に連れて貰いました。

熊野市有馬町の産田神社の「垢離掻場」と伝えられている「まないたさま」に連れてもらいました。 産田神社はイザナミノミコトが火の神であるカグツチノカミを産み落とし、陰部を焼かれて亡くなった場所です。その場所は石で囲まれた祭祀遺跡で、「ひもろぎ…

大馬神社本殿とその周辺の景観

大馬神社は、井戸川上流域の大馬にあります。本殿は、聳え立つ盤座(いわくら)と滝を背景とした神明造りの建物で、棟持柱によって支えられています。 その神域は、境内のスギの巨木と調和し、荘厳そのものの犯しがたい雰囲気を漂わせています。 拝殿です。 …

大馬神社社叢と「祓場」

大馬神社は元来、三重県熊野市井戸・大馬地区の産土神として大馬権現社と呼ばれていました。そこには大馬権現・熊野権現・大神宮・八幡宮などが祀られています。創始は明らかではありませんが、大馬神社は平安時代から祀られている神社で(大麻神→大佐神→大…

三井寺 ③

三井寺境内、まだ見残した場所はたくさんありました。でも、微妙寺にお参りし、2008年に大阪市立美術館で手を合わさせていただき大好きになった美麗な十一面観音菩薩立像(9世紀制作、国重文)が安置された場所に頭を垂れた後、いよいよ最後の場所に向かいま…

円珍や源氏と関係深い不思議な神像と建物

三井寺境内の北側に、14世紀中頃、足利尊氏が寄進したという国宝の建物があります。この建物が新羅善神堂です。 特に、正面の欄間に彫刻された鳳凰と牡丹唐草の文様は傑作といわれています。 なぜ、足利尊氏が寄進したかというと、この新羅善神堂に祀られて…

三井寺 ②

この建物は、豊臣政権の5大老の1人であった長門・周防・石見の大大名・毛利輝元が寄進した経蔵(きょうぞう)です。この経蔵は、周防国山口の国清寺にあった室町時代の建物でしたが、慶長7年(1602)にここに移築されました。現在は国重要文化財に指定されて…

三井寺で興味深いものを発見

三井寺で興味深いものを発見しました。 御札を括りつけるために作られたものでしょう。金堂の直ぐ近くにありました。願いが叶えられるといいですね。 金堂のこの木組みが何ともいえずいい味を醸し出していますね。寺院建築を見る時には必ずこの部分を見上げ…

熊野本宮大社修復工事の記事。

去年、三重県熊野市在住のK氏を訪ねた帰り道でモミジバゼラニウムを買いました。そのモミジバゼラニウムが朱色の小さな花を咲かせました。本来、その葉のほとんどが茶色に変色していますので、葉だけでも十分に観賞に値するのですが、こうして小さな花が咲…

三井寺境内の「熊野社」と「光浄院」の総杮葺きの客殿外観。

久し振りに三井寺に行くことになって、是非とも行って見て来たかった建物は、この境内にあるはずの「熊野社」と、三井寺山内にある「光浄院」の総柿葺きの客殿(国宝)と庭園(国名勝)でした。 熊野三山は、11世紀末期以後,三井寺(園城寺)の支配下に組み…

三井寺を訪ねて ①

三井寺は、天台宗寺門派の総本山です。三井寺の正式名称は、園城寺です。この長等山山麓の広大な地域に、天智天皇の皇子・大友皇子(弘文天皇)の子大友与多王によって大友氏の氏寺として建立されたと伝承されています。そのことは、境内から白鳳時代の瓦が…

「白山平泉寺境内図」の中に描かれた熊野社(堂)

11月3日、福井城跡の堀の中に設置された柵の中にカルガモが10羽ほど巣を作っていました。留鳥としてここでこの冬を越すのでしょうか。 ところで、白山神社所蔵の「中宮白山平泉寺境内図」(江戸時代制作)によりますと、白山平泉寺の奥ノ院である「三宮」の…

国際熊野学会大会フィールドワークの報告 №2 大悲山峰定寺

5月24日、花背にある大悲山峰定寺に到着。 入り口です。シンプルですね。 『大悲山峰定寺縁起』によると、大悲山峰定寺は、平安時代末期の久寿元年(1154)に、山岳修験僧の「観空西念(山瀧上人)」によって創建された寺院で、大悲山全体が山岳信仰の霊場(聖…

東京プリンスホテル近辺

GWの最中、東京プリンスホテルへ所用があって行って来ました。 途中で、久し振りに東京タワーを見、その近くの暗がりの中に懐かしい場所を見つけました。 かなり様変わりしていましたが、妙に記憶の片隅に残っている場所でした。 もう一度ここに来れると…

熊野本宮旧社地大斎原での斎庭神事と熊野修験による採燈大護摩

4月15日、午後2時すぎ、熊野本宮旧社地「大斎原」(おおゆのはら)において斎庭神事がおこなわれました。 まず、宮司以下祭員が所定の座に着き、宮司一拝が行われ、修祓、神饌供与、祝詞奏上と続きます。 少年達による大和舞。楽が奏せられました。 少女…

熊野本宮大社の4月の諸行事と例大祭への招待

熊野本宮大社の九鬼家隆宮司から、4月の諸行事のお知らせをいただくと共に、春の例大祭へお招きいただきました。ありがたいことです。 この機会を利用し、できるだけ多くの行事に参加し、見聞をひろげてきたいと思っています。 4月13日(火) 午後1時(午…

「那智の火祭」を見物 №③

しばらく,日本を代表する名医(「神の手」といわれているそうですが)がいるという関東地方の病院に今後のカテーテル手術の打ち合わせに行って来ました。 それゆえ,ブログの更新がいく分遅れました。しかし,あまりにも写真の数が多く整理するのにちょうどよ…

「那智の火祭」を見物 №②

全国各地から集まった多くの観客を前に,約50㎏の「大松明(オオタイマツ)」を担いだ12名の氏子達に先導され,祭主の宮司・神職ら一行が長い石段を下り,熊野那智12神を滝に戻すための神事を行うため,那智の滝の前に向かったことは,前回,すでに説明しまし…

「那智の火祭」を見物 №①

昨日,19名の和高教OB・OG達と一緒に3台の車を連ねて,「那智の火祭」見物に行って来ました。当初,天気が危ぶまれたのですが,熊野の神々のお蔭もあって無事見物できました。 全国各地から集まった多くの観客を前に(写真①),主役の大タイマツを担ぐ12…

田辺市本宮町の備宿遺跡と備崎経塚

熊野川を挟んだ大斎原の対岸に,備崎丘陵があります。ここは大峰奥駈けの道の始りであり終点でもありました。 1枚目の地図(山本義孝氏の論文「山岳信仰遺跡を読み解く(一)-玉置山・備崎-」<紀南文化財研会誌『熊野』132号・133号合併号>より掲載)。この…

国際熊野学会の会場・「清浄光寺」即ち通称「遊行寺」のご紹介。

神奈川県のJR藤沢駅北口から商店街を進み,藤沢橋交差点の右端にある朱塗りの橋を渡りますと,1枚目の写真にある,黒塗りの総門が見えてきます。日本3大黒門の1つとしてよく知られています。 そこには,「時宗総本山」「清浄光寺」の2枚の大きな看板が…

西国三十三ケ所観音霊場巡り第1番札所の那智山青岸渡寺

那智山青岸渡寺は,元来,如意輪観音堂とよばれていました。平安時代末期に第2代目熊野三山検校・行尊らによって観音霊場として喧伝された結果,西国三十三ケ所観音霊場第1番札所として有名になりました。 1枚目の写真にあげた本堂(国指定重要文化財)は大…

熊野那智大社とその宝物

1枚目の写真にみられる現在の熊野那智大社の社殿は,江戸時代末期の嘉永4年から7年(1851~1854)にかけて建立されました。正面左端の第13殿・滝宮,第3殿・西御前,第2殿・中御前,第1殿・証誠殿,第4殿・若宮,そして第5殿~第12殿までの8社殿が直…

明治22年以前の熊野本宮大社の写真

明治22年以前の熊野本宮大社の写真です(和歌山県立博物館編『世界遺産登録記念特別展 熊野本宮大社と熊野古道』〈2007〉より掲載させていただきました)。 第一殿・第二殿(相殿),上神楽所,第三殿(本殿),第四殿,中四社の一部が写っています。第一殿・第二…

オーストラリア・ブルームの日本人墓地

オーストラリアにおける日本人の聖地といえばやはりブルームの日本人墓地(1枚目の写真)でしょうか。 日本人墓地は,ブルームの町の西のはずれにあります。息子は,帰り道,この日本人墓地にお参りして来たそうです。 1896年に最初の日本人の埋葬がおこなわ…

オーストラリア・ブルーム周辺のアボリジニーの聖地巡礼

これは私の聖地巡礼というよりも,私の息子がオーストラリアの州立大学院の修士号修得記念旅行の一環として参加したオーストラリア先住民族のアボリジニーの聖地巡礼の写真の記録のごく一部です。 先住民族のアボリジニーのある部族の聖地は,オーストラリア…

ヨルダンのマウント・ネボ

ヨルダン=ハシミテ王国北部にあるマウント・ネボは,預言者モーセが約束の土地・カナンへ行く途中で亡くなった場所です。行年120歳であったといわれています。 1枚目の写真は「モーセのモニュメント」の写真です。このモニュメントは世界各地のモニュメント…