『とはずがたり』の著者二条と中世前期の那智御師

 熊野御師の情報収集のため,久我雅忠女である後深草院二条の『とはずがたり』(福田秀一校注『新潮日本古典集成・とはずがたり』〈1978〉)を読みました。

 二条という女性は悪女でうそつきだという評判はありますが,非常に魅力的な女性のようです。

 嘉元3年(1305)9月10日頃,二条は般若経書写のため熊野へ出立しました。

 そして,20日過ぎの那智山如意輪堂での夢の中で父久我雅忠や後深草院,遊義門院に会い,説法開始とともに目覚め,何となくかたわらを探ったところ白扇を拾いました。

 このことを那智御師,「備後律師かくだう」に語ったところ,「扇は千手の御体といふなり。必ず利生あるべし」といわれたそうです。「千手」とはご承知のように,熊野那智大社の本尊である千手観音菩薩をさしています。

 この「備後律師かくだう」とは,二条の身分からして,当時,那智山10人宿老の1人であった権律師「覚導」のこと(永仁6年〈1298〉5月1日付け「権少僧都導覚紛失状」〈『熊野那智大社文書』1巻〉)をさしていたと推察されます。

 やがて,二条は般若経残部20巻を書写し終え,那智山に納入した後で下山し,帰京しました。

 ところで,『とはずがたり』の註釈を読んでいるうちに,いくつかの注釈に疑問を持ちました。

 その1つが那智御師に対する註釈が「伊勢・熊野などで,御札や暦を配ったり,参拝する信徒の祈祷・宿泊の便を図ったりした下級の神職」とされていることです。

 伊勢の御師と熊野の御師では,基本的な違いがあります。

 伊勢の御師は,檀那である道者の所へ出かけていって御札や暦などを配ったりしますが,熊野の御師は山内で祈祷したり,道者を自坊に宿泊させたり,山内を案内したりするだけです。

 御札などを配ったり道者を熊野に連れてくるのはすべて「先達」の役割です。

 特に中世前期の御師の殆どは,神職ではなく僧侶がつとめました。

 那智ではすべて社僧がつとめました。誰が御師をつとめるかは相手の身分によって違います。

 上皇女院,上級貴族の場合,本宮や新宮では,熊野別当家出身の社僧が,そして那智では執行・宿老・在庁級の社僧がつとめました。

 二条らが日々をおくった中世前期とは,こんな時代だったんですね。