「熊野の御師」研究其6

応永二七年(一四二〇)八月一一日付けの「丹波国井原岩屋入峯山伏願文」(『熊野本宮大社文書』65号〈『和歌山県史 中世史料二』所収〉)に,熊野本宮御師として「敷屋のきしとの」(「敷屋の岸殿」)が登場している。

(端裏書)
「たんはの国」
にうふの山伏三人
たんはの国いはらの岩屋
 しやうちう(花押)
 せんかく(花押)
 せんとく(花押)
熊野本宮御師敷屋のきしとの
  応永廿七年八月十一日

永享一〇年(一四三八)三月二一日付けの「丹波国岩屋寺西芳院引檀那願文」(『熊野本宮大社文書』77号〈『和歌山県史 中世史料二』所収〉)に,熊野本宮御師として「敷屋のきしとの」(「敷屋の岸殿」)が登場している。

丹波国氷上郡井原之石屋寺同庄内之事
本宮御師きし殿に定申処,如斯,
  永享十年三月廿一日
      丹州井原石屋寺先達西芳院
   本宮御師        光賢僧都(花押)

 
永享一二年(一四四〇)九月二四日付けの「備前国和気庄檀那願文」に,熊野山本宮御師として「敷屋殿」が登場している。

(端裏書)
「□□□□□□□□□」
  備州和気安養寺椙坊願文事,
右,御熊野山本宮御師者,敷屋殿一跡遺せんの房ニ可跡付候,同弟子同者旦那於恙可引導申候,仍為後之又証於尋之時節一定所,如件
  永享十二年九月廿二二日
          右遣ス,秀範(花押)

文安元年(一四四四)三月二三日付けの「備前国新田新荘檀那願文」に,御師として「敷屋之四郎左衛門」の名が出てきているようである。

 備州新田新庄熊野参詣之村□
  合
         山田原        木生村
次郎左衛門(花押)   左衛門尉(花押)  道智(花押)
         勝楽寺        中屋村
長福村(花押)     宝蔵坊(花押)   治部(花押)
勝楽寺
東坊(花押)       松本切(花押)
右,守此旨可有後々仕参詣者也,
仍所定置之状如件
  文安元年甲子三月廿三日
 御師敷屋之四郎左衛門
     (達脱カ)
     先○勝楽寺中坊(花押)

紀伊続風土紀』によると,敷屋氏が奉祭していた宝徳二年(一四五〇)の年号のある「妙見社」の棟札に,「司喜屋総領・紀兼好」の名が記されているそうである。まだ原文を確認していないのではっきりしたことはいえないが,敷屋一族の本家とおぼしき「敷屋のきしとの」とのつながりに注目したい。なお,これに引き続いて,康正三年(一四五七)三月二九日付けの「丹波国岩屋寺并坊大夫僧都願文」(『熊野本宮大社文書』八四号〈『和歌山県史 中世史料二』所収〉)に,御師として「きしとの」(「岸殿」)が登場している。

(端裏書)
丹波国井原岩屋寺願文」
丹波国氷上郡井原之岩屋寺并坊大夫之僧都,本宮きし殿,代々御師にて候上ハ,余いらんわつらいあるましく候,仍定状,如件,
  康正三年ひのとのうし三月廿九日
                 承永律師(花押)
   きし殿をし
     御宿所