和泉式部の「供養塔」と「祈願塔」

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 「伏拝王子社跡」(ふしおがみおうじしゃあと)の石祠のすぐ近くに,「和泉式部供養塔」(いずみしきぶくようとう)といわれる笠塔婆(正確にいうと,笠塔婆上に宝篋印塔の部品を積み重ねた奇妙なもの)か祀られています。

 それには「南無阿弥陀仏 施主平□□ 延応元年己亥八月日」の銘が刻まれているとのことです。これは延応元年(一二三九)の年号をもつ鎌倉時代前期の塔婆です。

 たぶんこれは三百町卒塔婆の残骸だと推定されますが,この供養塔には,平安時代中期の歌人和泉式部にちなむ次のようなエピソードが伝えられています。

 和泉式部が熊野参詣を遂げようとはるばる京から熊野にやって来た時,ちょうど月の障りとなりました。式部は,血の穢れゆえ熊野の神への奉幣がかなわないと思い込み,その不運を嘆きつつ,「はれやらぬ身のうきくものたなびきて月のさはりとなるぞかなしき」と歌を詠んで寝た所,その夜の夢に熊野権現が現れ,「もろともにちりにまじわる神なれば月のさはりもなにかくるしき」(「もとよりもちりにまじわる神なれば月のさはりもなにかくるしき」)と式部を慰めたといわれています。

 熊野の神は夢の中で託宣する神として有名ですが,この歌は『風雅和歌集』(南北朝時代成立)に載せられています。この伝承は,熊野権現が女人の不浄を嫌わない事例として時宗の聖たちによって世の中に広められたと思われます(五来重説)。

 このエピソードにちなんで江戸時代の俳人服部嵐雪は「蚋(ぶと)のさすその跡ながらなつかしき」という句を残しています。

 熊野の神ってすごく開けています。しかもすごくユニークです。  

 実は,「和泉式部供養塔」なるものはもう一つあります。それは,現在,熊野本宮大社境内の傍らに「和泉式部祈願塔」として祀られています。この「祈願塔」は,元来,熊野本宮大社の旧社地にあったそうで,それを移転させてきたものだそうです。