新視点からの熊野古道散歩-和高社研第4ブロック現地研修会報告-№4

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            新視点からの熊野古道散歩
             -和高社研第4ブロック現地研修会報告-№4

   4,「滝尻王子社」と熊野古道

 「滝尻王子社」は,現在の田辺市中辺路町栗栖川の南西端,支流の石船川が本流の富田川に合流する渓谷にあります。現在は「滝尻王子宮十郷神社」と呼ばれ,古くから熊野九十九王子の1つとして知られています。

 さらに,「滝尻王子社」は,「熊野権現金剛蔵王宝殿造功日記」では五体王子の1つとされ,熊野古道沿いの王子社の中でも特別視されています。

 なお,ここでいう「王子社」とは,一言でいえば「熊野三山へ参詣する人々を守護するため,熊野権現の分神として出現した御子神を祀っている社」(小山靖憲氏説)のことです。

 「滝尻王子社」の初見は,『中右記』天仁2年(1109)10月23日条で,そこに「巳一点来著滝尻之前川上一許町,欲昼養之間,〈中略〉昼養了於向岸上祓,次参王子許奉幣如先」と記されていますが,「滝尻」の地名そのものの初見は,『大御記』永保元年(1081)10月2日条で,そこには「戌剋登滝尻之人宿」と記されています。どうやら『大御記』の作者・藤原為房ら一行は,滝尻に住む人が経営する宿所に一泊したようです。

 なお,『中右記』の「著滝尻之前川上一許町」の箇所に「初入御山内」と傍記されていますが,これは滝尻の地がまさに熊野神域への入口と認識されていたことを示しています。

 同時に,この付近に町石の走りと考えられる「三百町」と書かれた「卒塔婆」があったことが記されています。

 この「卒塔婆」が石製卒塔婆であったか,木製卒塔婆であったかは不明ですが,現在「滝尻王子社」の社前に宝篋印塔(1枚目の写真)とならんで町石卒塔婆が1基残されています。

 この王子社では,かつて垢離・奉幣・経供養・里神楽などがおこなわれていました。そのことが,『吉記』承安4年(1174)9月30日条,『熊野詣日記』応永34年(1427)9月26日条などに明記されています。

 また,正治2年(1200)12月6日の後鳥羽上皇熊野御幸の際に,ここで歌会が催されたようで,「熊野懐紙」として今に残されています。

 なお,『後鳥羽上皇熊野御幸記』建仁元年(1201)10月14日条には,藤原定家上皇の入夜給題に対して即詠の歌を披露したことが記されています。さすが定家ですね。

 なお,旧社地は明治22年(1889)の水害ですべて流されてしまい,社祠は一時対岸に移されましたが,戦後にもとの位置に戻されました。

 椎の木の林に囲まれた王子社の建物は昭和54年(1979)に再建された建物です。ここに江戸時代に作られたご神体が納められています。

 「滝尻王子社」で簡単な説明をおこなった後,近くにある熊野古道館に入り,展示物に関する説明をおこないました。

 かつて発見された高原経塚遺跡は室町時代の遺跡で,そこから容器として使用された常滑焼の経壷と青銅製の経筒,皿類,古銭8枚,鉄刀などが発見されています。

 さらに,語り部のМ氏のご好意で今まで公開されていなかった新史料(容器として使用された平安時代末期の東播系須恵器の経甕破片と常滑焼の経壷,青銅製の経筒残欠とそれに付属していた青銅製の装飾品<2枚目の写真>,中国伝来の青白磁白磁の合子片)を見てもらいつつ,逐一説明しました。なお,史料写真は山本義孝氏から提供頂きました。

 中世において,この「滝尻王子社」境内に経塚群を築いた人々の中には,一般の貴族以外の,田辺市の「高尾山経塚群」を営んだ村上源氏一族のような中央政界の中枢にいた上級貴族も含まれていたことを,新たな史料を示しながら指摘しましたが,以前とは違う踏み込んだ説明になったと思っています。

   おわりに

 最初にも書いたように,今回は,世界遺産に指定された高原~滝尻間の熊野古道のうち中世の道を意識的に歩き,山本義孝氏などが提唱している修験道考古学の立場から熊野古道や修験の行場遺跡・経塚遺跡の新しい見方について学び,社会科教員としての資質および授業実践力を高めてもらうことを研修目的にしてきました。

 さて,今回の研修を通じてどの程度の成果があったか,参加された先生方の今後の活動振りが楽しみです。