「大斎原(旧熊野本宮大社)」(前編)

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 「熊野本宮大社」(「熊野坐神社」・「熊野十二所権現社」ともいわれています。上四社・中四社・下四社,あるいは三所権現社・五所王子社・四所明神社からなる)は,かつて熊野川とその支流の合流地点に形成された広大な中州である「大斎原」(おおゆのはら)に鎮座していました。

 しかし,明治二二年(一八八九)の大水害によって社殿の大半を流失したため,「祓殿王子社跡」近くの山中に上四社だけが移転・再建され,そこが「熊野本宮大社」とよばれるようになりました。

 「大斎原」とよばれる旧社地には,現在,杉木立に囲まれた切石積みの巨大な基壇が残され,そこに流失した中四社・下四社の神々を祀る小祠が建てられています。ここは現在,字名を高倉といいますが,そのいわれは不明です。発掘調査によって,弥生時代の大集落跡でも出て来ればこの字名が生きて来るのですが。

 ところで,平安時代前期の貞観元年(八五九)五月,「熊野本宮大社」の祭神である「熊野坐神」(証誠殿・家津御子神)の神階は,従五位上から従二位に進み(『日本三代実録』),さらに天慶三年(九四〇)二月には正一位に進んだ(『長寛勘文』)といわれています。

 なお,一〇世紀後半成立といわれる『いほぬし』には,「御山につきぬ,ここかしこめぐりてみれば,あむじちども二三百ばかり,をのがおもひおもひにしたるさまもいとおかし」と書き記され,「庵室」の他にも「御堂」や「礼堂」などがあったと書かれていますが,まだ渾然とした状態であったようです。

 ちょうどこの頃に,神仏習合が進展し,その後,各々固有の起源を持つ熊野の三神が相互に他の二神を勧請・合祀して「三所権現」を形成したようです。

 永観二年(九八四)に成立した『三宝絵詞』には,本宮の主神である一所(証誠殿・家津御子神)が両所に「そえる社」として登場し,本宮・新宮の呼称も見えます。一〇世紀末期までには,本宮・新宮に「三所権現」が祭祀されていたことがわかります。本宮で三神の像が造られたのもこの時期です。

 『大御記』永保元年(一〇八一)一〇月五日条に,「午剋,浴無音川解除,著修理別当清(勢)深房,申剋,参御前先奉幣,次奉供幡・花鬘代於三所之御殿,次於礼殿奉経御修供養数部之経王,太郎童奉幣経供養,同以奉仕次郎丸,今日依当衰日,半夜奉幣并経供養,先是退下宿坊休息之後,又参□行諷誦,後夜罷出納経念珠等旧貫」とあり,翌日,藤原為房ら一行は本宮を出発。ここに登場する「三所之御殿」は「三所権現」を意味しています。この時期は,熊野信仰上の画期となった時期であったようです。
 当時の熊野本宮は,熊野新宮とともに一五代目熊野別当長快によって統轄されていました。

 また,一二世紀から一三世紀にかけて成立したといわれる『熊野権現金剛蔵王宝殿造功日記』(偽書との見解もある)に永長元年(一〇九六)に「本宮十二所権現」社が炎上したとの記載があります。そしてここに,寛治四年(一〇九〇)当時の社内の建物に関する記載が見られます。それによると,本宮には「証誠殿」,「両所」,「若宮殿」,「禅師聖児子守宮」,「一萬・十萬,勧請十五所,飛行夜叉,米持金剛童子」の他に「礼殿」,「四面廊」,「東門」,「西小門」,「平垣」,「御正体安置・縁起奉間」,「三昧僧宿所」,「命子舞殿」,「経所」などが設けられていたようです。
 熊野本宮は寛治四年(一〇九〇)以降,中央寺社勢力の秩序に組み込まれたことがわかります。

 『中右記』天仁二年(一一〇九)一〇月二五日条に,「此間入夜,出野路祓,戌刻著宿所,修理正寺主房也」とあり,建物としては,「証誠殿」,相殿一棟の「両所権現」,「若宮王子」,「五所王子」,「四王子」,「一万眷属・十万金剛童子・勧請十五所・飛行夜叉・米持金剛童子・総社」一所,「礼殿」(「両所権現之大屋也」)などの名前が列挙されています。この『中右記』の記述は,主要社殿の配置を具体的に知り得る最古の記述です。

 『長秋記』長承三年(一一三四)二月一日条に,祭神として「丞相」・「両所」・「中宮」ら三所と,「若宮」・「禅師宮」・「聖宮」・「児宮」・「子守」ら五所王子,「一万普賢,十万文殊,勧請十五所,釈迦・飛行薬叉・不動尊・米持金剛童子毘沙門天・礼殿守護金剛童子」などが列挙されています。当時の熊野本宮は,一六代目熊野別当長範(一〇八九~一一四一)によって統轄されていました。