現在の「熊野本宮大社」

イメージ 1

イメージ 2

 「熊野本宮大社」(くまのほんぐうたいしゃ,別名「熊野十二所権現社」という)は,かつて熊野川とその支流の合流地点に形成された広大な中州である「大斎原」(おおゆのはら)に鎮座していました。

 しかし,明治二二年(一八八九)の大水害によって社殿の大半を流失したため,「祓殿王子社跡」近くの山中高台に,流失をまぬがれた上四社(江戸時代後期に建設)だけが移転・再建されました。写真は表側と裏側から撮った「熊野本宮大社」の写真です。

 相殿神殿である第一殿・第二殿は,両所,西御殿・中御殿とよばれ,熊野牟須美大神(くまのむすびのおおかみ)と熊野速玉男大神(くまのはやたまおのおおかみ)を祭神としています。本社殿である第三殿は,証誠殿(しょうじょうでん)とよばれ,熊野家津美御子大神(くまのやつみこのおおかみ)を祭神としています。第四殿は,若宮と呼ばれ,天照皇大神を祭神としています。

 なお,現在,「熊野本宮大社」境内の傍らに以前紹介した「和泉式部祈願塔」が祀られています。この「祈願塔」は,元来,熊野本宮大社の旧社地にあったそうで,それを移転させてきたものだそうです。

 神社の宝物類はその多くを水害で失いましたが,残った宝物の多くは,宝物殿に収蔵されています。

 その主要な宝物は,江戸時代末期の「熊野本宮并諸末社図絵」,南北朝時代の「熊野本宮八葉曼荼羅」(県指定重要文化財),平安時代末期の「平清盛奉納紺紙金泥経」,鎌倉時代初期の「源頼朝奉納鉄湯釜」(建久九年〈一一九八〉,国指定重要文化財),江戸時代初期の「豊臣秀頼奉納神額」(慶長一八年〈一六一三〉,県指定重要文化財),能面,三角縁神獣鏡,江戸時代初期の「徳川頼宣奉納擬宝珠」(元和六年〈一六二〇〉,県指定重要文化財),「備崎経塚出土遺物」,「熊野本宮大社文書」などです。

 なお,熊野古道は,「熊野本宮大社」が移転してくる以前,当然,その真中を通っていたようで,今でも「熊野本宮大社」の社殿裏と,「熊野本宮大社」から下って来る参道の西側に石階段の古道の跡が残されています。

 また,熊野本宮でおこなわれる神事のうち,一月七日におこなわれる八咫烏神事(やたがらすしんじ)は,県有形民俗文化財に指定され,四月一三日におこなわれる湯登神事(ゆのぼりしんじ),一二月一〇日におこなわれる御竈木神事(おかまきしんじ)は,県無形民俗文化財に指定されています。

 現在の「熊野本宮大社」の表鳥居から国道一六九号線を渡ると,「大斎原(旧熊野本宮大社)」への新しい石畳の参道があります。この付近は,室町時代の『熊野詣日記』によると「鳥井の辻」とよばれ,道も比較的広かったようです。
 現在の参道は,中世の参道とほぼ同じ道を通っていたと思われますが,熊野川の畔にある産田社(うぶたしゃ)の手前で右折し,そのまま南に進み蛇行していた音無川を草鞋のままで渡って東鳥居を潜り,「大斎原(旧熊野本宮大社)」に至ったようです。