「音無川」

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 「音無川」(おとなしがわ)は,すでに過ぎて来た「三越峠」付近にその流れを発し(写真はその源流の一つである滝),東流して旧熊野本宮神社社前で熊野川にその流れを注いでいます。

 中辺路を歩く参詣者たちはその上流・中流において何度か流れを渡り,最後に旧熊野本宮神社社前で必ず「音無川」を歩いて渡り,社地に入るという「ぬれわらじの入堂」をおこなうことになっています。

 「音無川」は熊野本宮に入る最後の潔斎垢離場として特に重要とされたことがわかります。

 「音無川」の初見は,一〇世紀後半頃に書かれたと考えられる『いほぬし』に,「をとなし川のつらにあそべば,人しばしさぶらひ給へかし,神もゆるし聞え給はじなどいふほどに」,頭の白いカラスがそこにいたことから,「山がらすかしらも白く成にけり我かへるべき時やきぬ覧」という歌を詠っています。

 また,『大御記』永保元年(一〇八一)一〇月五日条に,「午剋,浴無音川解除,著修理別当清(勢)深房」とあります。

 さらに,『平家物語』には「霊験無双の神名はおとなし河に跡をたる」と書き記されています。

 つまり,「音無川」は,熊野神の神域を流れる聖なる川として多くの歌に詠まれ,歌枕となりました。『拾遺集』には清原元輔によって「音なしの河とぞ遂に流れ出づるいはでもの思ふ人の涙は」と詠われ,『後鳥羽院集』には「はるばるとさかしき峰をわけすぎて音なし河をけふ見つるかな」と詠われています。

 『宴曲抄上』では,「心のうちの水のみぞ,げに澄まさりて底清く,あらゆる罪も祓殿,御前の川は音無の,浪しづかなる流れなればかや」と謡われています。

 江戸時代の『熊野巡覧記』によりますと,この頃既に本宮の町の中央に「耳語橋」(ささやきばし)とよばれる板橋が架けられており,名所になっていたようです。
 江戸時代末期の「熊野本宮并諸末社図絵」にもその橋は描かれ,その橋を渡り終えて後に左折して参道を進んで「ぬれわらじの入堂」を果たしたことがわかります。


 熊野本宮神域内の熊野古道沿いの名所・旧跡を,ちょっとバラバラに扱い過ぎましたので,このへんで順番を整理しておきます。ご参考までに。

 「発心門王子社」→「南無房宅」→「水呑王子社跡」→「菊水井戸」→「伏拝王子社跡」→「和泉式部供養塔」→「三軒茶屋跡」→「祓殿王子社跡」→「阿弥陀寺跡」→「現熊野本宮大社」→「音無川」→「大斎原(旧熊野本宮大社)」→「本宮庵主坊跡」

 後残り一所(「大斎原(旧熊野本宮大社)」)となりました。非常に長い文になりそうです。