藤倉城近くの新発見の出城跡に登り、歩く。
残念ながら、かつて熊野那智の社僧(しゃそう)・御師(おし)であった実報院(じっぽういん)の居城・藤倉城は、国道42号線の自動車専用高速道路の建設のために破壊されました。下の出城跡の図面は白石さんが描いた縄張図です。
私達は舗装された山道を通り、近くにお住いの西村さんたちからお話を伺い、南側から標高70数mの城山へ急斜面を上りました。
ここは西にある曲輪(くるわ)の1つです(↓)。戦時、ここにも兵が常駐していました。
これは上の曲輪の西にある堀切(ほりきり、空堀)です(↓)。 西側から尾根を伝わってくる敵をここで遮断する役割を担っていました。
私達は、南から北へ、1500万年前に形成された熊野層群の砂岩・泥岩の岩場(↓)を通って北の主要曲輪(主郭)部分に移動。尾根の上にはゴツゴツした岩場が続きます。
途中で南に目をやるとこんな那智湾の景色を一望。(↓) 見張りに最適の土地ですね。
勝浦半島・中ノ島や温泉街も遠望できます。(↓)
さらに狭い尾根を、前に進む。(↓)
ここは虎口(こぐち)と呼ばれる曲輪の出入り口部に当たる所だそうです。(↓)
両側が少々土盛りされています。
ここが戦兵の主力が常駐していた主要曲輪(主郭)です。(↓) 【追記】主郭の端の方に土塁の跡らしいものも見えていますね。
ここから北側に、かつての藤倉城本体の破壊跡(コンクリート部分)とそれを貫く高速道路が見えます。(↓) そして、背後には那智の山々が見えています。かつてこの主郭から、大谷川向こうの藤倉城やその出城群が一望できたことでしょう。