田辺ジオパーク研究会探索行 №②


①の続きです。
 
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 この地蔵の左右に彫られた文字を読んでみるとタテに次のように刻まれていました。
 「左 かほら 右 かわまた」【小板橋淳さんの本ではこれを「左 かぶらへ、右 かわまたへ」と読んでいるようです】

でも、ちょっと変です。方向から見ると、左と刻まれた地名「かほら」(私注、上洞)右と刻まれた地名「かわまた」(私注、川又)とが左右(東西)真逆です。これは、たぶんこの像が置かれていた場所が、以前は現在地と道を隔てた反対側にあったと考えるべきではないでしょうか。もっとはっきりいえば、①の9番目の写真に見える、上の方に向かう道の、向かってすぐ左に、地蔵像が祠と共に置かれていたと考えるべきではないでしょうか(仮説です)。

さらに、先に向かう途中で、炭焼き窯の傍らを通りました。こんな所で炭を焼いていたんですね。白炭ではなく黒炭でしょうか。
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歩いている途中、退屈なのでHさん等とたくさん生えていたシダを飛ばして遊びました。杉にぶつかりかけているシダの姿が見えますか(笑)。上手でしょう。
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そして、ここが「僧屋敷」とよばれる場所です。
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どうやらこの三差路の広場には、かつて、南部清川・龍神安井方面と印南・切目方面を東西に結ぶ「切目畝」(切目辻)があり、付近に15世紀頃に創建されたとの伝承を残す南部の「勝専寺」と関係があったとされる建物があったようです(『南部町史』3巻参照)。
しかし、伝承としてはっきりしているのは、ここが、現存する勝専寺御本尊の阿弥陀如来像が掘り出された土地であったとのことです(勝専寺所蔵の『宝物濫觴当山正統記』による)。
 現在、ここには、木柱が建てられ、そこに
(表)「勝専寺御本尊発祥之地」  (裏)「門僧徒一同建之」
 と書かれ、すぐ近くに建物の礎石と思われる石が残されていました。
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   この木柱は、平成9(1997)年11月に勝専寺関係者の手によって建てられたようです。

昼食後、時間があったのでここに荷物を置いて「三里ケ峰」(旧「切目峯」)へ登ってみようということになりました。
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 そしてここが「三里ケ峰」(旧「切目峯」)772m地点です。本日はこれ以上、先に進みません。
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  私達はここを見届けた後、荷物を置いた「僧屋敷」の跡地に帰り、写真撮影の後、すぐさま引き返しました。
その道の遠かったこと。来た時以上の距離を感じました。