田辺市本宮の備崎遺跡行
修験道考古学の研究者・山本義孝氏は、紀南文化財研究会発行『熊野』132・133合併号掲載の「山岳信仰遺跡を読み解く(一)―玉置山・備崎―」において、山岳修験研究という立場から、備崎遺跡を、神仏界、参籠所(「備宿」)、埋経(納経)所(いわゆる有名な「備崎経塚」のことで、12世紀から14世紀にかけて形成)、磐座(いわくら)・洞窟群などの聖域と行場(修行場)が混在した遺跡として構造的に捉える必要性を説いています。
その考え方を図示しますと、次の通りになります。
北
磐座・洞窟群
西 東
埋経(納経)所(「経塚」) 参籠所(「備宿」) 神仏界
南
ここが備崎遺跡への入口です(↓)。
しばらく登ると道が2つに分かれます。上へ登っていく道が埋経(納経)所(「経塚」)を経て参籠所(「備宿」)・神仏界へと向かう道です。しかし、私達はまず左へ向かう近世の道といわれるバッハゾーンの下の道を行きました(↓)。なぜかあまり公認ツアーガイドは案内しませんが、ここも熊野古道です。
ここからはシダでおおわれた荒れた道が続きます。石垣で補填された道もあります(↓)が、危ない所もありますので歩く場合は左へ滑り落ちないよう細心の注意が必要です。
最初の木橋の所に来ました(↓)。本当はもう少し先へ行きたかったのですが、橋が朽ちかけており危険なので(修理する必要あり)、今日はここまでで止めました。
なお、ここで注目して欲しいのはこの右側に大きな岩場があるということです(↓)。
ここから右に入ると磐座・洞窟群すなわち修験者(山伏)の行場に向かうことができますし、さらに上に登り埋経(納経)所や参籠所を経て神仏界へと向かうこともできます。
しかし、今回は大津荷でのジオサイト(黒尊仏)調査という別の目的もありますので、中に入らず残念ながらここから引き返すことになりました。
さて、ここからが埋経(納経)所(「備崎経塚」)を経て参籠所(「備宿」)そして神仏界へと向かう山道です(↓)。
ここが有名な「備崎経塚」すなわち埋経(納経)所で(↓)、この上にも何ヶ所か経塚群が見つかっています。
江戸時代にこれらの経塚のどこかから、合計3㎏以上の銀器のかけらや、黄金の筒に入れられた黄金の阿弥陀仏や、元中央官僚でセレブの秦親任が埋経した1121年銘の渥美焼の外容器と銅製の経筒が発見されました。黄金の阿弥陀仏は現在行方不明ですが・・・・もし見つかれば、たぶんこれ1つで国宝に指定されるでしょうね。
本当はここからさらに上の参籠所(「備宿」)や神仏界へ向かっても好かったのですが、時間が押していることもあって今日はこれぐらいにして引き返すことになりました。
本当に残念でした。
なお、参考までに、別の機会に撮った大峰奥駆道の第1宿である「備宿」跡地(山伏たちの宿所)の写真を載せておきます(↓)。
でも、この先にある神仏界の写真は載せるのを止めておきます。その理由はおわかりですね(笑)。