龍松山城跡と国陣山城跡の調査略報


 昨日(11月13日)、和歌山城郭調査研究会の白石博則氏・水島大二氏らによる、和歌山県西牟婁郡上富田町所在の松山城跡(りゅうしょうざんじょうせき)国陣山城跡(こくじんさんじょうせき調査に同行しました。
 以下にあげる地図の3つの○の中、右上に○を付けたのが松山城跡で、左に○を付けたのが国陣山城跡です。右下の坂本付城跡は、南北朝時代以降、この地域の国人領主・山本氏が本拠としていた熊野街道沿いの館城であったと考えられています。

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①、松山城調査

 20年ぶりに訪問した龍松山城跡(上富田町市ノ瀬字後代所在、標高約91m)は、元々、国人領主・山本氏の重要拠点でしたが、戦国時代に入り室町幕府奉公衆・山本氏の本拠として堅固に整備され、現況の規模(180×220m)になったと考えられています。
  Ⅱ郭まで車で上りました。

 以下の図面は水島氏の提供を受けたものです。

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 主郭(Ⅰ郭)の西南部端 〖↓〗
 
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 主郭西南部端からの見晴らし。Ⅱ郭では晩秋らしく紅葉が赤く色づいています。〖↓〗

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 主郭を囲む土塁(かなり削られている)に注目。〖↓〗

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 ここで昼食。
 それにしても同好の士たちとの語らいの楽しいこと。十分に楽しませてもらいました。
 5人の研究会員に感謝!!

②、国陣山城跡調査

 私が初めて訪問した国陣山城跡(上富田町上岩田所在、標高約126m)は、従来、天正13年(1585)3月の羽柴秀吉による紀州平定時の臨時的城郭と考えられていました。しかし、白石博則さんは、これを龍松山城に拠る国人領主の山本氏が築城した単郭の「出張之城」(出城)と見なし、熊野街道を通って押し寄せて来る秀吉の南征軍の侵攻をまずここで防ぐために築いた臨時的な城と推定しています。
  現況の規模は50×70m、龍松山城の約3分の1の小規模な城であったようです。

 以下の図面は白石氏の提供を受けたものです。
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 車を駐車スペースに置いて城跡のある山を登る途中、毬栗(イガグリ)をたくさん見かけました。〖↓〗

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 帰る時に拾って帰ろうか、などと思いつつ、城跡のある辺り〖↓〗を見上げ、気合を入れてひたすら登りました。

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 西側から城跡へ。これは主郭防御のための堀切(空堀)です。〖↓〗

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 西の鞍部からの侵入に対する備えのための櫓台の高まりが見られます。〖↓〗

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 主郭内部です。

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 白石さんと一緒にあちこちを探索。取り敢えず北の尾根を探りました。

 ここは東の王子谷地区と西の岩田地区を繋ぐトンネルの上。地上では峠越えのハイキングコースの分岐点になっています(真ん中に標識あり)。〖↓〗

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 さらに北へ向かう。おや、こんな所に堀切が。〖↓〗
  新しい発見かもしれないので、取りあえず全員を呼んで検討する必要あり、との白石さんのご意見により、ここから引き返す。

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 しかしこのあと、他用のため、私は1時間早く引き揚げさせてもらいました。
 帰り道で、散在するキノコの群れを発見。〖↓〗

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 でも、これらのキノコは非常に毒々しい印象だったので、写真を撮るだけに留めました。かなり掘り散らかされているので、あるいはイノシシが掘り返して食べたのかもしれないなどと、ひたすらイノシシの生存を祈りつつ、城跡を後にしました。

 帰る途中、視界が少し開けました。隙間から岩田地区が見えます。

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 昨日は小春日和とでもいうべき、好い日だったなあ・・・・というのが、私の総括です(笑)。