「源行家」についての私見

 
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  来年のNHKの大河ドラマ平清盛」で脚光をあびるであろう「源行家」についての私見を要約しておきます。
 
源行家(生年不明〜1186)は,源為義の10子で本名を義盛といいました。保元・平治の乱後、同母姉「たつたはらの女房」(夫行範の死後、「鳥居禅尼」を名乗る)の庇護の下に置かれ,熊野新宮に住んでいたため新宮十郎とも呼ばれました。
治承4年(1180),以仁王令旨を奉じて東国に赴き,源頼朝を始めとする諸国源氏に平氏への蜂起を促しました。養和元年(1181)尾張三河の武士たちを率いて,墨俣川で平氏軍と戦いましたが,あっけなく敗れました。寿永元年(1182),鎌倉に赴きましたが,頼朝に入れられず,木曽谷にいた源義仲軍勢に加わりました。寿永2年(1183),平氏が西走したため義仲とともに京都に入り,朝廷から備後守に,さらに備前守に任命されました。
しかし,行家は次第に義仲と不和となり,播磨へ下向。室山で平氏軍と戦いましたが,敗れたため,和泉・河内方面へ逃れ,さらに石川(長野か)城を義仲の軍勢に奪われたため,紀伊方面へ逃れました。義仲軍壊滅・平氏滅亡後の文治元年(1185),頼朝・義経兄弟の関係が悪化したため,行家は義経に協力し,後白河院に頼朝追討の院宣を請い認められました。
しかし,行家と義経は,頼朝を追討するのに必要な軍勢を集めることができず,西国に逃れようとして嵐に遭い失敗。後に北条時政に率いられた鎌倉軍が京都に到着した結果,行家・義経に対する追討の院宣上皇から出され,文治2年(1186),和泉小木(近木)郷の日向権守清実の宅に隠れていたところを北条時定らにからめ取られその場で首を斬られました。