和歌山県白浜町観福寺の2世住持覚元について №③

 
  1988年に沖縄・与論島を家族旅行した際に撮った写真を2枚紹介します。
 
  1枚目の写真は、守礼門近くにある国重文で世界文化遺産に指定されている園比屋武御嶽石門(そのひやんうたきせきもん)の写真です。この「園比屋武御嶽石門」は、背後にある聖なる森の拝殿にあたるものだそうです。聖なる森(御嶽)は、一部を残して大部分が今はもうないそうですが、この時にはまだありました・・・・残念なことです。
 
イメージ 1
 
  2枚目の写真は、鹿児島県与論島百合ケ浜海水浴場の沖合いにある珊瑚の破片(「星の砂」など)で作られた島です。この島は、干潮時にのみ水面に現れる島だそうです。上陸して海水浴を楽しみました。
 
イメージ 2
 
 
   白浜町観福寺の2世住持覚元について №③
 
   3、
観福寺所在の「富田村」の領主は、文永3年(1266)5月28日付けの「後嵯峨上皇院宣」(「中村直勝氏所蔵文書」<『日置川町史』第一巻に所収>) によると、神仏習合の一中心地であった熊野三山の1つである「那智山」であった。
 
那智山領富田・安宅・周参見三箇村已下事、奏聞候之処、代々関東成敗之間、
先度所被下之院宣、被召返候也、可得其御意候歟之由、
御気色所候也、以此旨、可令洩申給、仍執達如件、
   五月廿八日         権右中弁経任□
謹上 大納言法印御房
 
「富田村」は承久の乱後、鎌倉幕府によって関東御成敗の地とされたようであるが、たぶん那智山との関係は切れていなかったらしく、熊野新宮別当家系の範智の子孫がこの地にいたという伝承を多く残している(「吉田氏系図」「中岩氏系図」など)。
つまり、観福寺は興国寺と熊野三山とを繋ぐ結節点に位置していたわけで、このことから見て、心地覚心の弟子の1人である覚元が何故、実質上の第一世(名目上の開山第1世は覚心)となり、この地にいた熊野新宮別当家系の範智の子孫を檀那としつつ観福寺を開いたのか、おおよその理由は理解できよう。