和歌山県白浜町観福寺の2世住持覚元について №②
先日、1988年に沖縄・与論島へ家族旅行をした際に撮った写真(「守礼之門」)を紹介しました。
石門と石垣の背後にある王墓は、すべて 1つの岩山を堀削して造られたそうです。
2、
ところで、覚元については、つい最近までこれ以上の事跡はわかっていませんでしたし、法燈派の僧として覚元が熊野地方強化に果たした役割についてもよく知られていませんでした。
しかし、1985年におこなわれた興国寺文書の活字化(『由良町誌・史<資>料編』刊行)によって、覚元の経歴について次の2つの事実が明らかになってきました。
A、興国寺所蔵の弘安9年(1286)3月15日付けの「銅造鍍金筒形経筒墨書文」に経奉納者の「如法経衆」56名の1人として15番目に「覚元上座」の名が記されています(『由良町誌・史<資>料編』223〜224頁)。
この他に、元亀元年(1570)に写された「興国寺塔頭次第」に塔頭10庵の1つである瑞応庵の庵主として登場している「覚元太祖和尚」が「富田観福住持覚元」と同一人物であるならば、興国寺が観福寺を末寺化するにあたって如何にこの寺を重要視していたかがわかるのでしょう(『由良町誌・史<資>料編』309〜310頁)。しかし、残念ながら「覚元太祖和尚」が活動していた時期が明らかになっていないので、この点に関し、現時点では事実認定を保留しておきます。
薗田香融(関西大学名誉教授)先生の「紀伊半島における仏教諸派の伝播」(『紀伊半島の文化史的研究』所収)によりますと、紀伊半島における臨済宗妙心寺派の寺のうち、和歌山県東牟婁郡・西牟婁郡(熊野)、三重県度会郡(伊勢)に分布する寺の大部分が旧法燈派であったそうです。
これは、主に鎌倉時代後期以降の興国寺の僧侶達の活躍(神祇信仰との習合による胸腺の拡大)によるところが大きいのですが、覚元もまたそのような僧侶の1人であったことがわかります。