岩屋山石龕寺の金剛力士立像

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 最近,熊野修験道に関係した寺院・神社の個別的研究を進める中で兵庫県内の寺社に注目しています。

 中でも,岩屋山石龕寺(いわやさんせきがんじ)は,兵庫県氷上郡山南町岩屋にある6世紀頃に聖徳太子によって建立された古刹としてよく知られています(後に真言宗の寺になりました)。

 かつて境内には僧坊が700以上建ち並んでいたといわれていますが,天正年間の戦火により僧坊や記録の類を失い,今は庫裏として利用されている多聞院と本堂・薬師堂の他に山門と鎮守である焼尾神社が残存しているだけです。
 
 写真にある,二体の金剛力士立像(山門)は,鎌倉時代の仁治3年(1242)に慶派の肥後法橋定慶によって制作されたもの(重要文化財)で,力強く写実性に富み,しかもスマートな印象を受けます。この金剛力士立像は,定慶の仁王像の代表作といわれています。

 南北朝時代の観応二年(一三五一),足利尊氏・義詮父子が丹波国に逃亡後,足利義詮が石龕寺に立て籠りましたが,この時,義詮の下に近隣の荻野氏・波々伯部氏・久下氏・中沢氏など多紀・氷上2郡の土豪が味方として馳せ参じ勢力を盛り返しました。この結果,石龕寺は室町将軍家の庇護を受け大いに繁栄したようです。しかし,天正年間の戦火により,衰退しました。