新宮丹鶴城跡

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 1枚目の写真は新宮城下町の絵図です。

 熊野速玉大社の東方にある丘陵・丹鶴山には,元々,熊野別当家の嫡流である新宮別当家の別邸や,平安時代末期の大治5年(1130)に源為義女「たつたはらの女房」(別名「熊野鳥居禅尼」)が夫の熊野別当行範(1115~1173)の死後,その冥福を祈るために創建した東仙寺や,熊野速玉大社の神宮寺であった崗輪寺などがありました。

 慶長5年(1600),浅野幸長甲斐国から紀伊国に入り,新しい藩主となりましたが,慶長6年(1601),浅野幸長の次男右近大夫忠吉が新宮に入り,直ちに当地に城を築き始めました。忠吉はまず当地にあった東仙寺や香林寺を他所に移し,縄張りを始めました。城は慶長末年までには一応完成したようですが,その後いく多の歴史的変遷を経て,元和5年(1619)に新宮丹鶴城がほぼ完成しました。

 広島県三原市立図書館所蔵の元和年間の新宮城図によりますと,全体が天守丸・本丸・2ノ丸・2ノ段丸・出丸,城門6・櫓門5・2層櫓4・単層櫓9・熊野川に面して設けられた水手門から構成されており,天守丸は大天守(9間四方)ら小天守が付設された複合式の天守丸であったようです。

 2枚目の写真は新宮城の部分だけをピックアップしたものです。

 しかし,新宮丹鶴城の築城工事そのものは,新城主となった和歌山藩付家老・水野重仲(水野家初代)に引き継がれ,2代新宮城主・水野重良による寛永10年(1633)の増築(『熊野年代記』)をへて,寛文7年(1667),3代新宮城主・水野重上の時代にようやく3万5000石の本城として完成されたようです(『新宮市史』)。

 完成された時には,本丸の西に鐘ノ丸が,そしてその北に松ノ丸が別につくられていました。大天守閣は3層もしくは5層であったようです。田辺城が平城で,しかも天守閣を持たず本丸に陣屋だけを構えていたことを思うと,新宮丹鶴城(沖見城ともいう)が常に戦闘状態を前提につくられた平山城であったことがわかります。新宮城の場合,城山の西麓と東麓に侍屋敷が配置されていました。

 なお,新宮城は,明治4年(1871)の廃藩置県により廃城となり,建物全部が解体され,大正11年(1922)には外堀も埋め立てられました。そのため,現在の城跡には,本丸と鐘ノ丸の石塁と発掘調査で確認された松ノ丸の石塁及び土壁などが残存しているだけになってしまいました。ただ,近年の発掘調査により,熊野川に面して設けられた水手門(水ノ手郭)付近から炭納屋群(13棟)の存在が明らかにされ,国史跡に指定されたことは大きな収穫でした。

 これらの写真は,『和歌山県立博物館編『世界遺産登録記念特別展 熊野速玉大社の名宝』(2005)より掲載させていただきました。