新宮市東仙寺の仏像と寺宝

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 平安時代末期,源為義の娘で,源行家(新宮十郎義盛)の実姉でもあった「たつたはらの女房」(別名「熊野鳥居禅尼」)は,自らが開基となって,大治5年(1130),丹鶴山に東仙寺を建立しました(『紀伊風土記』)。
 鳥居禅尼は,夫に当たる19代熊野別当行範の死後,剃髪して菩提寺東仙寺で夫の菩提を弔うかたわら,6人の男子(範誉,行快,範快,行遍,行詮,行増)と何人かの女子を育て上げました。後世,範誉は那智執行,行快と範快は熊野別当,行遍は『新古今和歌集』の歌人,行詮と行増は熊野権別当となり,さらに名前は不明ながら女子の1人は田辺別当家の湛増の妻となって何人かの子供を生んでいます。

 その禅尼が祈念仏としていたのが,東仙寺の阿弥陀如来坐像・薬師如来坐像千手観音菩薩坐像の三尊像です。すでに「仏像」のコーナーで紹介ずみの県指定文化財阿弥陀如来坐像・薬師如来坐像(1枚目・2枚目の写真)は,ともに平安時代後期に制作されましたが,千手観音菩薩坐像は室町時代に制作されました。
 東仙寺には,釣灯籠が2基ありますが,江戸時代前期に制作された金銅製沢瀉紋透釣灯籠(3枚目の写真)が新宮市文化財に指定されています。
 
 なお,その後東仙寺は,『新古今和歌集』の歌人であった行遍の子孫に当たる宮崎氏の帰依を受け,永享8年(1436)に宮崎定康が修理,寛正6年(1465)に宮崎定弘が再興,明応4年(1495)に宮崎盛定が修理したと伝承されています。
 宮崎氏は,後に本拠地を有田郡宮崎庄(現有田市)に移したため(阪本敏行『熊野三山熊野別当』),その氏祖に当たる行遍法橋(極位は法眼)が『新古今和歌集』の歌人であったことが新宮市民等の間に十分に伝わっておらず顕彰碑すら建てられていないことが非常に残念です(Wikipedia「行遍」)。

 慶長6年(1601),新宮城主となった浅野忠吉は,本城を丹鶴山に築くに当たって土豪・蓑島氏の屋敷跡に移建させ,そこを薬師町と名付けました。寛永13年(1636),徳川頼宣紀州藩入りにより新宮城主となった水野重良が東仙寺を再興して祈願寺としました。

 なお,丹鶴山の旧寺地には八幡宮が城鎮守として祀られ,東仙寺が別当寺となりました。しかし,近代に入り薬師町で火災に遭ったため,現在地に再興されました。

 1枚目・2枚目の写真は新宮市教育委員会の提供によるものですが,3枚目の写真は『和歌山県立博物館編『世界遺産登録記念特別展 熊野速玉大社の名宝』(2005)より掲載させていただきました。