新宮市別当屋敷町から山際地にかけての寺院及び文化財

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 熊野速玉大社近くの別当屋敷町の南を堀端通りがほぼ東西に通っています。
 町名の由来は,当地にあった平安時代末期の鳥居在庁の住房を起源とする熊野別当屋敷跡があったことによるといわれています。

 ところで,戦国時代に,戦国大名として台頭しつつあった堀内氏は,天正年間(1573~1592)の始め頃に佐野から熊野速玉大社近くの宇井野地に拠点を移し,周囲に堀を巡らした方一町の居館を構え,熊野地方に勢力をふるっていました。
 その後,堀内氏が退転した後,元和年間(1615~1624)に,和歌山藩付家老で新宮城主の水野重良が矢倉町にあった真梁寺を全龍寺(1枚目の写真,曹洞宗)と改名しその居館跡に移建し,水野家の菩提寺としました。

 千穂ケ峰の東麓・山際地にある無量寿寺は,臨済宗妙心寺派の寺院で,本尊は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて制作されたと推定される阿弥陀如来像(2枚目の写真)です。かなり傷みが激しく簡単に拝観させてもらえないことが残念ですが,これは慶派の作品の中でも名品だと思いますよ。
 また,ここには釈迦が入滅する際の様子を表わした,南北朝時代から室町時代初期頃にかけての絹本着色仏涅槃図(3枚目の写真)があります。保存状態も良く,紀南地方における仏涅槃図髄一の優品と目されています。
 
 戦国時代の新宮地方を代表する土豪で,源行家の子孫といわれる新宮周防守行栄は,元亀2年(1571)に,鎌倉時代以降居住していた下熊野地から熊野速玉大社の近くに引っ越しそこに屋敷を構え,戦国大名として台頭しつつあった堀内氏善と戦いましたが,天正19年(1591)に滅ぼされてしまいました。
 そのため,慶長年間(1596~1615)に,この屋敷跡に日蓮宗法華寺が建立されましたが,江戸時代の延宝6年(1678)に,和歌山藩江戸家老・新宮城主の水野重上によって本広寺と改名されました。
 ここには,新宮出身で茶道表千家の基礎をつくった川上不白が寛政9年(1797)に建立した県指定文化財の書写妙法蓮華経印塔(4枚目の写真)があります。

 これらの写真は,『新宮市史 史料編下巻』(新宮市,1986),『和歌山県立博物館編『世界遺産登録記念特別展 熊野速玉大社の名宝』(2005),安藤精一編『和歌山県文化財 第3巻』(清文堂,1982)より掲載させていただきました。