「熊瀬川王子社跡」と古道に関する幾つかの異論

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 「小広峠」から少し下って熊瀬谷の橋を渡ると,山道にさしかかります(1枚目の写真)。「熊瀬川王子社」(くませがわおうじしゃ,2枚目の写真)は,「小広峠」・「小広王子社跡」から〇・七㎞程離れた場所にあります。ここまでの所要時間は一五分です。近くに説明板が建てられています。

 「熊瀬川王子社」の名前は,建仁元年(一二〇一)の『後鳥羽上皇熊野御幸記』には登場しません。「熊瀬川王子社」が創建されたのも,かなり後世のことでしょう。

 「熊瀬川」(くませがわ)という地名の初見は,鎌倉時代前期の貴族・藤原頼資の日記である『修明門院熊野御幸記』承元四年(一二一〇)五月一日条で,「熊瀬川」において昼養を取ったことが書かれています。この時に「熊瀬川」で昼養を儲けた人物は二四代目熊野別当法印湛政(一一四七~一二二二)か,権別当の行詮であったと思われます。

 また,『後鳥羽院・修明門院熊野御幸記』建保五年(一二一七)一〇月九日条に,「於熊瀬川有御養,進物所供之,如重點」とあります。さらに,『修明門院熊野御幸記』寛喜元年(一二二九)一一月五日条でも,「熊瀬川」において昼養を取ったことが書かれています。

 もしかすると,この辺りの平地が『中右記』天仁二年(一一〇九)一〇月二五日条の「大平緒」(おおひらお)と呼ばれた地域であったのかもしれません。

 「熊瀬川王子社」の初見は,鎌倉時代末期・正中三年(一三二六)の『熊野縁起』(仁和寺蔵)で,そこには「熊背川王子」と書かれています。「熊瀬川王子社」近くに建てられた説明板には,「熊瀬川は,谷川の名であると同時に,この付近一帯から小広峠へかけての地名であるから,熊背川王子は小広王子を指すことも考えられぬことではない」と書かれています。

 この近くに,かつてこの地域に屋敷を構えた熊瀬一族の墓地があり(3枚目の写真),その一角に鎌倉時代末期から南北朝期にかけての宝筺印塔の一部が残されています。熊瀬川王子社にも宝筺印塔の部材が残されていますが,両者は一つにくっつきそうです。

 なお,現在の熊野古道は熊瀬川王子社の社殿跡を横切っていますが,本来の熊野古道は少し右手に逸れた所を真っすぐ上り,途中で左手にそれて一段高所にある熊瀬川王子社に立ち寄るか,そのまま素通りして行ったと推定されます。

 上り道の「熊瀬川坂」はかなり険しい道で,そのためかそこにはかなり古そうな石段と石畳が残されています(4枚目の写真)。

 ここから「草鞋峠」(わらじとうげ)までは〇・六㎞といったところでしょうか。