「大斎原(旧熊野本宮大社)」(後編)

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 写真は,大斎原から経塚群で有名な備崎を撮った写真です。スモツグのため少し写りが悪いですね。

 では,本文を続けますが,『本宮町史』を大いに参考にさせていただきました。関係者各位に感謝申し上げます。いずれにしても,『熊野古道調査 小広峠~本宮庵主坊跡間』は,これで終わりです。

 さらに,『宴曲抄上』,『国阿上人絵伝』,室町時代の『熊野詣日記』応永三四年(一四二七)九月二八日条や帰途の一〇月三日条・四日条にも本宮が登場し,社殿の配置などもよくわかります。こうした社殿の配置は,室町時代に入っても変わりがなかったことが確認できます。

 江戸時代前期の延宝八年(一六八〇)に制作された『熊野三山図』と『熊野山絵図添目録扣』によってすべてがそろった状態が絵図化されていますが,これこそ熊野本宮大社の最盛期を示すものと思われます。 なお,『熊野三山図』には,それまでなかった建物として北西部端に西大鳥居・高橋・惣門・牛頭天王社,さらに北東部端に音無天神社・三重塔なども描写されています。また,西御前と御本社間には神楽屋が置かれていることも注目すべきでしょう。

 江戸時代中期の享保一六年(一七三一),将軍徳川吉宗による修築がおこなわれましたが,それらの建物は,明和七年(一七七〇)の大火によって大部分が焼け落ちたといわれています。そして,その間に,東門の役行者像が湯の峰に移転されたり,釣り鐘などが売却されたようです。

 江戸時代後期の享和二年(一八〇二)から文化七年(一八一〇)にかけて製作されたと推定されている『熊野三山絵図』と,幕末に製作されたと推定される『旧社全景絵図』を見ると,社殿の配置に変化が生じていることがわかります。

 まず,社殿の西端にある両所権現の相殿神殿とその東隣にある証誠殿間を仕切っていた南北の廻廊と理門が取り払われていることがわかります。さらに,文化七年(一八一〇)製作の『熊野三山絵図』では,それまであった仏教系の「本宮庵主坊」の建物がすべて取り払われていることがわかります。これは本宮内での唯一神道化の進展と見做すべきでしょう。

 いずれにしても,明治の神仏分離令によって熊野本宮大社神道化が推進され,今に至っていることは間違いないでしょう。