「大斎原(旧熊野本宮大社)」(中編)

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 『後鳥羽上皇熊野御幸記』建仁元年(一二〇一)一〇月一六日条に,藤原定家らは「祓殿」から歩いて御前に参りましたが,「過山川千里,遂奉拝宝前,感涙難禁」と感想がつづられています。彼等は,いったん宿所に入り,明け方遅くに「祓殿」へ帰参したようです。そして,近辺の地蔵堂に入り衣食を取り寄せた後上皇の御幸の御供をし宝前に参じたといわれています(「ぬれわらうつの入堂」)。なお,「御拝」の順番は決まっていたようで,先ず本地仏阿弥陀如来である「証誠殿」で拝礼し,ついで「両所」,「若宮殿」,「一万十万御前」で拝礼しています。また,この他の儀式や舞い,相撲などについてもかなり細かく記されているが,「御々経供養御所」(「礼殿」),「西経所」などの建物についての記載もあります。しかし,定家にとって寒風はかなり身に応えたようで,「咳病,殊更に方為なく発し,心身なきが如し。殆ど難く,〈中略〉腹病・痟瘍などが競合す」などと弱音をはいている。そして翌日の一七日にも本宮の「御所」(「西向礼殿」)前で「芝僧供」などの儀式が引き続いておこなわれました。当時の熊野別当は,二二代目熊野別当行快(一一四六~一二〇二)でした。一八日に,川原に出て船に乗り熊野新宮方面に向かって川を下り,二〇日になり雨の中を雲取越えで本宮に帰り着きました。

 なお,『頼資卿熊野詣記』承元四年(一二一〇)一〇月三日条に,藤原頼資が日野資実とともに本宮に著き,浄衣を清めて奉幣し,恒例の自筆心経で供養をおこないました。「信心甚だ妙,実に宿縁の至り也,悦ぶべし,悦ぶべし」と述べ,三鍋王子社で眠った時に忽ちにして示現を蒙ったとの感想を漏らしています。そして,翌日の四日に小船に乗って下り新宮に参詣したとのこと。七日に本宮に帰着。八日に本宮に逗留し「湯峯」温泉で沐浴したといわれています。

 『修明門院熊野御幸記』承元四年(一二一〇)五月一日条に,行列を組んで参宮した様子が細かく記され,さらに,水浴を「無音川」,近代は「熊乃川」でおこなうようになったことが記されています。二日も儀式がおこなわれ,三日に一行は船に乗り新宮に下って行っています。当時,熊野別当湛政と修明門院の御師・小松法橋快実らが色々と手配し,儀式を円滑に進行させていたことがわかります。六日に本宮に帰着しました。

 『頼資卿熊野詣記』建保四年(一二一六)三月二〇日条や,建保五年(一二一七)七月三日条にも,本宮での参詣の様子が記載されています。

 『後鳥羽院・修明門院熊野御幸記』建保五年(一二一七)一〇月一〇日条には,行列を組んで参宮した様子が事細かく記され,一一日に一行は船に乗り新宮に下っていきました。当時,別当湛政と御師・小松法印快実の子松王丸が代官をつとめ色々と手配し,儀式を円滑に進行させたことがわかります。一五日に本宮に帰着。二〇日に本宮を出立。今回は長きに渡る本宮逗留でした。

 『頼資卿熊野詣記』承久二年(一二二〇)一一月六日条に,本宮に参詣,七日に引き返したことが記載されています。藤原頼資の御師は,田辺別当家出身の権別当法印快実でした。また,『頼資卿熊野詣記』寛喜元年(一二二九)一一月六日条に,藤原頼資が御山(熊野本宮)の宝前に巡礼し藁踏の礼拝をおこなったところ,証誠殿・西御前において熊野の神を信じる力が堅固となり,涙が袖を伝わったといわれています。巡礼の後,頼資ら一行は宿所に入りましたが,三ケ月前に二六代目熊野別当に補任されたばかりの法眼快命(一一七五~一二三七)が挨拶に入来し,近年,山中に山賊が出没し何の備えもない道者から物品を奪い取る事件などが起こったため,狼藉をおこなうことを停止させる命令を出し犯人を搦め取ったことなどを語り(もっとも,頼資ら一行は田辺から湛真の兵士を召し伴ったため心配はいらなかったようです),さらに自らが思いがけず別当に補せられましたが,これは神恩によるものであることなどを語り,しばらくして退去したことが書かれています。その後,別当快命や御師の権別当湛真(一一八四~一二四三)から酒肴・菓子などが送られて来たことも記載されています。

 また,『経俊卿記』建長六年(一二五四)八月二九日条に,吉田経俊ら一行は本宮に着き,歩き入堂の後,しばらく休息し,無音水を浴びた後,奉幣装束を着て奉幣し,ついで経供養・加持などを例の如くおこなったと記され,翌日,走り入堂の後,扁舟に乗り新宮に下ったと書かれています。さらに,大雨と洪水のため二日,新宮に足止めされました。二八代目熊野別当信快(尋快)以下常住の僧達も洪水で船が全く通行していないと主張した結果でした。しかし,九月五日にようやく洪水もおさまった結果,本宮に帰参し,翌日の六日,宮廻りの後,宮の油戸で宝印を突き,帰途に着いたといわれています。

 また,『経俊卿記』正嘉元年(一二五七)閏三月三〇日条に,吉田経俊ら一行は本宮に参着し,まず宮廻りをし夜に入り常の如く奉幣したと記され,さらに帰り道の四月四日条に,船下に棹し本宮に着き,まず例の如く入堂し,夜に入りまた宮廻りしたと書かれています。当時,二九代目熊野別当定湛は田辺にいて,吉田経俊の本宮御師職を田辺別当家出身の蓬莱家の人々(蓬莱尼,法橋湛有ら)と競望していたようです。

 『一遍上人絵伝』からは本宮境内の建物の配置や儀式の様子がわかります。旧社地の傍らには,「一遍上人神勅名号碑」も建てられています。