「本宮庵主坊跡」

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 本宮庵主は,中世後期以降,熊野本宮の造営・勧進を主催し,熊野三山検校の指示で多くの熊野山伏を率い全国をまたに掛けた活動を展開して来た天台修験寺院です。
 
 写真は橋を渡って西側から旧社地跡に入る場面を撮ったものですが,橋を渡り右手の繁みに入って行くと,ここからは見えない所に「本宮庵主坊跡」があります。左手に行くと旧社地の大基壇に至りますが,そこを右手に入っても「本宮庵主坊跡」に行けます。でも,冬季以外はヘビに注意。

 ところで,本宮庵主の初見は,やや信憑性に問題のある『熊野年代記』永禄四年(一五六一)条で,本宮が炎上した際に行景が本宮庵主職にあったことが書き記されています。

 また,戦国時代の年不詳四月一八日付けの「蠣崎蔵人利広書状」にも「本宮庵主坊」に初穂を進上したことが記載されています。

 寛永一〇年(一六三三)五月一一日書上げの「本社及摂末社其外諸建物目録」によると,「本宮庵主坊」には,護摩堂,客殿,庫裏,不明門などがあり,その場所は,延宝八年(一六八〇)の「熊野三山図」によると中州にあった旧本宮権現社に隣接した西側,音無川と熊野川の合流点近くにあったようです。

 しかし,一七世紀後半には田移転して無住となっていたようです。さらに一八世紀前半には,参拝者を宿泊させているが,本宮の社家中が順番で管理していたようです(元文四年〈一七三九〉成立の『熊野めぐり』)。

 そして,唯一神道の普及とともに仏教系の「本宮庵主坊」もこの世から消えていったようです。