昭和31年(1956)に廃村となった道湯川集落跡。

イメージ 1

イメージ 2

 この道湯川集落(どうゆかわしゅうらく,田辺市中辺路町道湯川)は,中央部を湯川川が南流する谷間の集落でした。この集落を熊野街道(中辺路)がほぼ東西に貫通し,途中に屋敷跡や田圃跡を囲っていたと見られる石垣が多く残されています。昭和31年(1956)に最後の湯川家が道湯川を去り,無住の地となりました。

 1つ目の写真は,集落の中を古道が通っている所を撮った写真です。
 2つ目の写真は,湯川一族の墓地を撮った写真です。この日も墓前に白い団子が備えられていました。恐らく午前中に湯川家の方が来られて備えられたものでしょう。村は廃村となっても生きているんだと感じました。でも,この後,どうなるのか・・・・。

 「湯川」という地名の初見は,平安時代後期の貴族・藤原為房の日記である『大御記』永保元年(1081)10月4日条の「着三階之人宿,先浴内湯川」です。さらに,平安時代後期の貴族・藤原宗忠の日記である『中右記』天仁2年(1109)10月25日条に「過入寺谷,内湯参王子」,そしてさらに平安時代後期の貴族・源師時の日記である『長秋記』長承3年(1134)2月2日条に「於内湯有昼養事」と記載されています。「内湯川」・「内湯」というのが当時の一般的な通り名であったようです。

 鎌倉時代前期の貴族・藤原定家の日記である『後鳥羽上皇熊野御幸記』建仁元年(1201)10月14日条に,「湯河宿所」の名が見え,「路の間,崔嵬にして夜行は甚だ恐れあり。<中略>甚だ寒く山寄り」であると記載されています。

 また,鎌倉時代前期の貴族・藤原頼資の『修明門院熊野御幸記』承元4年(1210)5月1日条には「次著湯川御所」の名が見え,ここで昼食をとり,「臨時御浴・御祓」などをおこなったことが記載されています。

 なお,鎌倉時代前期の貴族・藤原頼資の『頼資卿熊野詣記』寛喜元年(1229)11月7日条に,藤原頼資一行が輿に乗って熊野参詣から帰る途の「湯川昼養所」で息子の経光が俄に発病したため小袖2領を御山に献上するため,上野法橋に付け小先達を以って護身として送ったことが書かれています。

 道湯川集落は,中世を通じて中辺路の宿場として繁栄したようです。後にこの道湯川集落から土豪湯河氏が登場し,後に紀中の日高・御坊地方に進出し室町幕府奉公衆及び国人として活躍するのも,この宿場としての繁栄があればこその話であろう。

 室町時代前期の住心院実意の日記である『熊野詣日記』応永34年(1427)9月27日条に「おくの湯川が子御むかへにまいる,御兵士済々めしくす」と記載されています。

 「慶長検地高目録」(1613)では,村高39石余り,小物成2斗4升3合。江戸時代には,4番組に属し,道湯川村は,江戸時代後期の『紀伊風土記』に家数12,人数44と記載されています。林信章著『熊野詣紀行』寛政10年(1798)条には「人家多く宿茶屋あり」と見えるので,依然として街道筋の宿場町としてにぎわっていたことがわかります。集落内に寺院はなく,野中村の養命寺が檀那寺でした。

 しかし,明治初年に桧葉・曲川・武住・大瀬を通る新道が完成したため,通行が途絶え,以後急速に衰退し,昭和31年(1956)に最後の湯川家が道湯川を去り,無住の地となりました。