「美奈倍」の道祖神

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 南部海岸で夕陽を見ているうちにある話を思い出しました。

 11世紀中頃,『大日本法華経験記』所収の「紀伊国美奈倍道祖神」の説話である。『大日本法華経験記』が成立した時期は,長久4年(1043)または5年(1044)とされているので,ここに収録された説話は遅くとも11世紀中頃には成立していたものと思われる。

 この「美奈倍」の道祖神に関する説話は古くから有名な話であったらしく,これと全く同じ説話が『今昔物語集』の中にも「天王寺僧道公,誦法花救道齟齬」として出てくる。この説話そのものは、法華経に関わる霊験譚もしくは応生譚とでもいうべきもので,3日3夜の誦経によって異類というべき「三奈倍郷海辺大樹下」の道祖神を観音眷属に転進せしめたある僧侶にまつわる説話である。これはどちらかというと,『大日本法華経験記』の説話を『今昔物語集』の作者が取り入れたとみるべきであろう。

 現在の南部においてこの説話と関係がありそうな確かな遺跡は知られていないが,この出来事が起こった場所が「三奈倍郷海辺」ということでやや想像をたくましくしてみると,『中右記』天仁2年〈1109〉10月21日条記載の「三鍋王子」社がこの説話と何らかの関係を持っていたと考えることができる。なぜならば,過去にこのような説話や伝承がもとになって社祠や村堂が建てられていく例が多く見られるからであり,さらに当時の南部の海岸部で神仏習合の象徴ともいうべき王子社のことが出てくるのはこの「三鍋王子」社が初めてであるからである。

 ところで,神身離脱を表明するような神が山岳神に多かったことはよく知られているが,いずれも未だ高い神格に昇華していない、不安定性かつ怨霊性の強い性質を持つものばかりであった。したがって,これらの神々はしばしば人に祟り,災いを及ぼす存在であった。 

 ここに出てくる道祖神は,人に祟ることはなかったが,自ら他の行疫神に悩まされていた。そこを,天王寺の僧道公の3日3夜に及ぶ法華経の誦経によって救済されたわけである。ここには,仏教が神に奉仕し,神の意向を満たしてやることによって神道と仏教を接触・融合させていく神仏習合の実態がはっきりと描写されている。熊野王子社が熊野街道沿いに設けられた経緯とどこかでつながっていると考えてもよかろう。